クラシック批評こてんぱん

鈴木淳史 / 洋泉社 / 2001/08/20

★★

とんでもない間違いが印象的な以外は普通の本

 クラシカル音楽の批評を扱うメタ批評。なにはともあれ、本書には非常に珍しい特徴が1つある。表紙、帯、奥付などにある著者の名前が間違っているのである。正しくは「鈴木淳史」なのだが、それが「鈴木敦史」となっている(著者後書きには正しい表記が記されている)。これは「誤植」ではなく、編集者の勘違いであることが、本に挟まれた小さい紙片から明らかになる。以下引用。

「注意書きへの注」
本書の著者名が間違っています。
正しくは「鈴木淳史」です。
編集者が校正中に読んでいた池宮彰一郎『本能寺』(毎日新聞社)に頻繁に登場する幸若舞「敦盛」の修羅の苦しみと浄化が本書の内容を彷彿とさせたために、「淳史」を「敦史」と変貌させてしまったものであり、本書の内容に関してはなんら影響するものではありません。

 このように、ほとんど開き直りと言っていいような釈明文(まあ開き直るしかないとは思うが)。著者との間にどういうやりとりがあったのだろうか。

 本の内容そのものは、私はクラシカル音楽批評の分野には明るくないのだが、その分野に詳しい人ならば普通に話しているであろうような内容を、あまり上等ではないユーモアのセンスで語っているというものだった。門外漢として興味をひかれたトピックとして、(1) 最近、技術論に特化した人々が現れている、(2) 「評論家」、「批評家」などの肩書きを使わず、「音楽ライター」みたいな肩書きを自称する人々が増えた、などがある。まあ、その気持ちはわかる。

 音楽に関しては、私は昔から輸入盤(というか非日本盤)のアルバムばかりを買ってきたので、(日本的な)ライナー・ノーツや歌詞カードの存在に最初から違和感を抱いている。ここ10年は、それ以外のほぼあらゆるジャンルの「評論」に関心を持てなくなっている。

 なお、クラシカル音楽とは関係ない話だが、記録として書いておく。Carol Kayeというベーシストにまつわる話で、この人がいわゆる「モータウン神話」と言われるものを真っ向から否定していることが、一部の人々に大きな衝撃を与えている。クラシカルではなく50〜60年代のアメリカン・ポップスからロックへの系譜に関連する話で、簡単に言えばこれまで「黒人音楽」とされてきたものが実は「ハリウッドの白人の音楽」だったということで、人によってはここ20年ぐらい信じきっていたことが完全なる嘘であったということを突きつけられてにっちもさっちも行かなくなっているらしい。教訓は、アートについて語られる言葉はもともと危ういが、商業化された集団芸術について語られる因果的な言葉はもっと危ういというものだ。このモータウン神話に関しては、アメリカの人種問題と、60年代からの人権運動とそれに結び付いた商業主義の話が絡んできてややこしいのだけれども、そこの部分を度外視すれば、映画で言えば『風と共に去りぬ』や『オズの魔法使い』の「作者」について論じることの無意味さに通じる話ではある。

 本書で紹介されるさまざまな評論文にも、この手の「因果関係の語りすぎ」とでも呼ぶべき特徴が数多く見られ、私がクラシカル音楽にまつわる言葉に感じる気持ち悪さのショウケースとなっている。この感覚を著者も少しばかり共有しているようだが、この問題に対する態度を決定していないことが、本書の中途半端さの原因になっているように思った。なお、80年代「ポストモダン」的な言葉は非常に少なく、映画で言えば双葉十三郎と淀川長治を論じるみたいな話が大部分を占めており、相対的には幸せなジャンルだという感じがした。

2001/8/19

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