ドキュメント 屠場

鎌田慧 / 岩波書店 / 98/06/22

★★★

部落問題の方に焦点があわされている

 芝浦、横浜、大阪南港、徳島にある屠場で働く人々に関するルポルタージュ。読み進めながら奇妙な感じを受けていたが、あとがきに至ってその理由がわかった。解放出版社の『部落解放』に連載されたものをまとめた本だったのである。おそらく、それぞれの屠場を扱っている章が1回分の原稿だったのだろう。記述が重複していたり、スムーズに流れていなかったりしてわかりにくい。

 屠場で働く熟練労働者、部落問題、労働組合。この3つが密接に絡み合った問題であることはよくわかるけれども、とりあえずはそれぞれを独立に扱った後に、それらの絡み方の説明に進んだ方がよかったと思う。この岩波新書の読者の中には、屠場で働く人が差別の対象になっているということを知らない人もいるかもしれない。

 興味深いながらも、十分に追いかけられてはいない主題がいくつか。この仕事においては依然として手作業の方が歩留まりがよい(114ページ)

手むきのほうが、皮と肉のあいだの脂肪をうまく肉のほうにつけることができて歩留まりがいいという。それに肉と血(スポット)がまじらず、全体的に白っぽくみえるようになる。これは、味がよく腐敗に強い。

 このことと、和牛が高く、外国産の牛肉が安いというのは、どういう関係になっているのか? そもそも全体的な工程の中で、皮むきを手作業でやることのコストはどれだけなのか? 安い牛肉を輸出している国では、どの程度まで自動化を進めているのか?

 その他。もう少し系統立った屠場の歴史を知りたい。現代につながる肉食は、鎖国が終わった後の文明開化を発端としているといえる。その後、衛生上の理由から、食用にする動物の屠殺は屠場でのみ行うことが法律によって定められた。そうなった後で、屠殺という仕事が卑賎視されていて、なかなかなり手がいないという理由から、被差別部落出身者が集中するようになる。こうして見ると、少なくとも屠殺に従事する人々に対する差別は、なるほど近代に再生産されたもののようだ。特定の職業に対する卑賎視と、特定の人間集団に対する卑賎視が、互いに原因と結果の関係になっている様子が見て取れる。

 屠場労働者たちの側の考え方の変遷が興味深い(あとがき230ページ)。

わたしが会ったわかい屠場労働者たちには、屠場を重要なものを生みだす現場だ、と主張してきたのは、生き物を殺すことを忌み嫌う、「殺生戒」や「穢れ観」に呪縛され、その差別と正面から対決していない妥協的な主張だった、との自省もうまれている。ものの重要度を区別して、生き物を殺す行為を弁明しようとすれば、野犬を捕らえる仕事をしている仲間はどうなるのか、との矛盾に逢着する。殺生戒や穢れ観こそが差別をつくりだしている。この呪縛から解放される方へむかおう、との訴えである。

 個人的には正しいと思うが、こういうところから現実的な環境保護主義者のsustainable developmentの主張に似た議論が出てくるのが興味深い。しかし、このような「穢れ観」が、一般人による無軌道な殺戮にブレークをかける機能を持っていることもたしかだろうと思う。ここでの「一般人」は、屠場労働者またはそれに類した人以外の人々のことで、上記のような考え方に到達できるのは、そういう職業に従事していたり、そういうことを日常的に考えていたりする人だからだ。そうでない人々の間では、「可愛いイルカを殺すなんてひどい」というような感覚が流布していた方が、結果的には環境へのインパクトが弱くなる可能性が高いと思う。「クリエイティブな仕事をする人がかっこいい」という観念は、単純労働従事者への卑賎視を生み出すが、結果として社会を前進させる、みたいな逆説。やはり一筋縄では行かない。

1998/6/25

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