動物化するポストモダン

オタクから見た日本社会

東浩紀 / 講談社 / 2001/11/20

★★★

どうなんでしょうか?

 オタクという文化現象をポストモダン化の流れの中に位置づけて論じようとする本。この読書メモで取り上げている似たようなトピックの本には『戦後民主主義のリハビリテーション』『戦後の思想空間』があるが、こちらの方が圧倒的にわかりやすい。これは、自らオタクである著者が、自分の心のあり方を世間に向かって説明し、納得してもらいたいという情熱によって書かれた本だからである、と理解した。

 私はオタクであってもおかしくない世代に属しているが、オタクではない。自分のことを「映画オタク」と呼んでもいいかもしれないと思ったことがかつてはあったが、いまの日本では、そのような広義のオタクの存在を許さないほどに、狭義のオタクがはっきりとした形をとってきているように思う。いまとなっては映画オタクを描く『フェイド・トゥ・ブラック』も、音楽オタクを描く『ハイ・フィデリティ』も、近代的な趣味人の苦悩を扱っているように見えてしまう。

 そういうわけで、私は本書を『井戸の中の韓国人』『喪失の国、日本』のような異文化本として読んだ。異文化に属する人が「自分の文化はこうなんだ」と言ったら、そのまま受け入れるしかない。あとは、同じオタク文化に属する人から異論や批判や共感の声が出てくるのを待つだけである。

 ただし、同時代に生きている私は、本書に解説されているオタクの心のあり方のいくつかを理解し、それに共感することができる。そして私は狭義のオタクでは「ない」ので、自分が共感できる部分は狭義のオタクの本質ではない、と感じられるのである。たとえば、大きな物語が信じられないこと、そこから「データベース的消費」に向かうこと、その過程で著者が「解離」と呼ぶ現象が受け手の側に生じることは、別に狭義のオタクに固有の現象ではない。その普遍性の源泉は、著者によれば「アメリカ型消費社会」である。つまりこれらの要素だけでは、アメリカ型消費社会(それが何であれ)の中で生き、そのプロダクトを消費しているこの私が、狭義のオタクを異文化と感じていることは説明できない。

 というのは意地悪な言い方で、著者のもともとの目的は、仮に世の中の人を「モダン」と「ポストモダン」と「オタク」に分けたとして、「ポストモダン」と「オタク」の類似性を強調し、あるいは後者を前者の流れの中に位置づけることで、「モダン」と「ポストモダン/オタク」の二分法と、「オタク」が「ポストモダン」の正統的な後継者であるというアイデアを、「モダン」の人に納得させることなんだと思われる。なお、上に書いた私の立ち位置は(自分で書いていて恥ずかしいが)「ポストモダン」である。AさんとBさんとCさんがいて、Cさんが、自分がBさんと仲がいいことをAさんに見せつけるためにBさんと手をつないだが、Bさんは困惑しているという図式。

 私はこれに似た不満を、多くのサブカルチャー論やオタク論に感じる。世の中にはオタクでないポストモダンもいるはずなのに、いつの間にかその存在が否定されていた、あるいはオタクの未進化形態として分類されてしまっていたという不満。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国』の項も参照。

 話を転じて、ローレンス・レッシグの『The Future of Ideas』と絡める。この本でレッシグは、インターネット上の本質的な自由さについて論じている。レッシグが論じるインターネットの自由さにはいくつかの層があるが、そのコンテンツに関する部分は、本書で指摘されているオタク系文化とWWWの親和性と相通じるところがある(ただしレッシグの議論はそれよりも下の層についてのものにずっと説得力がある)。繰り返すが私には「オタク系文化」がなるものがわからないので、本書の内容(あるいはその他のサブカルチャー論)に基づいた議論になるけれども、オリジナルとコピーの境界がぼやけること、二次的生産物が積極的に消費されることといったオタク系文化の特徴は、いまわれわれが使用しているWebの特性と親和的である。だからオタク系文化がWeb上で栄えるのはごく自然なことである。しかし、オタク系文化はWeb以前から存在していた。それを可能にしていたインフラストラクチャは、オリジナルの作品の著作者の派生著作物に対する寛容な態度である。

 コマーシャルな著作物に関して、一般にそのような寛容な態度がないアメリカに生きているレッシグにとって、インターネット/Webは、マーケットとして成熟していないがゆえに、コマースの論理がまだ入ってきていない一時的な楽園であった。彼は、今後はコマースの論理が入ってきて、インターネット/Webの自由さが損なわれると警告する。そしてこの自由さはイノベーションの源泉であり、これを損なうことは社会全体にとって良くないと主張する。

 しかし日本において、楽園たるWebが存在する前からオタク系文化において行われてきた複製や引用は、レッシグが想定するコンテンツ層でのイノベーション(の少なくとも一形態)に他ならない。日本人は、コンテンツ層におけるフリー・ソフトウェアとかオープン・ソースなどのイニシアティブを自然体で実現し、このイノベーションの実験を大々的に行っていたということになると思う。実験結果の評価は、「こんなものしか出てこないのか」というものから、「大きなマーケットが創出され、文化が作られた」というものまでいろいろとありえるとは思う。

 話を戻して、共感する部分について。たとえば「解離」の話は、別に1990年代の日本のオタクを持ってこなくても、「次のアステア&ロジャーズ映画」を楽しみにしていた1930年代のアメリカ人を持ってきても説明できる。観客は、映画の登場人物ではなく、アステアとロジャーズを見に行っていた。また、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズが、毎回違う役名で、出会い、ケンカして、最後に結婚する一連の映画を楽しんだ当時の観客たちは、本書でいう「データベース的消費」のコンシューマの典型だろう。もちろん、1930年代なんて中途半端な時代を持ってこなくても、ハリウッド映画はそのごく初期からそのように消費されており、映画以前の舞台芸術もそのように消費されていたことは間違いない。もちろんそれが複製可能なメディアに乗って巨大な産業になったことが「アメリカ型消費社会」のユニークさであり、量が質の変容をもたらしたということはありうるとしても。

 そのような「解離」が起こっていない状況にはどのようなものがあるだろうか。たとえば19世紀の大陸ヨーロッパにおけるオペラの歴史社会学の本である『オペラハウスは狂気の館』は、当時行われた検閲が、観客がオペラで演じられている内容をリアルなものとして認識していたがゆえの対策だったと論じている。プロレスのTV中継の初期の時代には、試合の内容に感情移入するあまりに心臓発作で死んだ人が出た(と言われている)。出典を忘れたが、南太平洋の島で衛星TVが導入され、地元民はハリウッド映画をたくさん見ているのだが、どうやらシルヴェスター・スタローン主演の『ランボー』をノンフィクションだと思っているようで不安だというアメリカ人の報告を読んだことがある。もうちょっと話を広げようか。アーケード・ゲームで、自機や自キャラの動きに合わせて体を揺らす人がいる。マクドナルドの店員の対応が機械的/マニュアル的であると不満を述べる人がいる。

 最後の2つの例は不適切だと思う人もいるかもしれないが、私がここで示唆しているのは、解離のプロセスは、新しい環境/状況/メディアが登場するたびに何度も繰り返して起こるということだ。このプロセスは、「システムに適応する」と表現することもできる。つまり、システムのアーキテクチャとユーザー・インターフェイスの関係を把握し、それに応じて自らの行動を変えるということである。そして私は、前述の「大きな物語が信じられないこと、そこから「データベース的消費」に向かうこと、その過程で著者が「解離」と呼ぶ現象が受け手の側に生じること」は、物語を利用した商品が大量に供給されるようになったという状況への、人間の自然な対応なのだから、オタクに固有の現象ではなく、普遍的なものだと考える。

 やはり、狭義のオタクに固有な特性は、商品の製作者と消費者の境界がぼやけ、消費者同士が相互に著作物を消費するというメカニズムが、インフラストラクチャによってサポートされたという点にあるのだと思う。映画でいえば、ちょっと昔ならば8 mmフィルム、いまならば家庭用ビデオカメラを使って理論上は同じことができるはずなのだが、決して大きな動きにはなっていない。レッシグは、テクノロジーの進歩とWebによって、映画や音楽でも似たようなことが起こり得るはず「なのに」、メディア企業が知的所有権を強硬に主張するので、その可能性が摘み取られていると嘆いている(おそらく彼は、引用から成り立つヒップホップ/ラップ・ミュージックは、リアル・ワールドで生じたために急激にコマーシャル化されたものとして認識しているだろう)。

 以上、オタク系文化のイノベーションの速度に関わる議論である。もちろんイノベーションはコマース主導でも起こりうるのであり、私がアメリカ映画やアメリカ製娯楽小説を好むのは、技術進歩の健全なサイクルがあると思っているからである。

2001/12/21

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