論争・英語が公用語になる日

中公新書ラクレ編集日、鈴木義里編 / 中央公論新社 / 2002/01/25

★★

あまり役に立たない

 「中公新書ラクレ」の「論争」もの。他には『論争・中流崩壊』『論争・学力崩壊』『論争・少子化日本』を取り上げている。

 「21世紀日本の構想」懇談会が曖昧な形で提言した「英語公用語」論を巡る文章を集めている。この提言については、懇談会のメンバーの1人である船橋洋一の『あえて英語公用語論』の項も参照。

 英語を公用語にするべきだという説得力のある論拠を自分では思いつくことができないので、賛成派の人々がどういう議論をしているのかが関心の対象になるのだけれども、本書の第I部に収録されている賛成派の文章にはやはり見るべきものがなかった。上記の船橋洋一に加えて、鈴木孝夫(『日本人はなぜ英語ができないか』)、田中明彦(『ワード・ポリティックス』などの文章が収録されている。

 以下、適当に思いついたことを書く。1950〜60年代の日本の歌謡映画を見ていてときどき驚くのは、そこに出演している日本人の発音がうまいことである。特に進駐軍相手に商売をしていたミュージシャンたちは、その会話能力や読解能力はわからないけれども、英語の歌詞の発音という点に限れば、それ以降の日本のミュージシャンたちと比べて圧倒的に上手だ。これには、アメリカ人と接触する頻度だけでなく、それ以降の日本のポピュラー音楽が洋楽離れを起こしたという事情も絡んでいると思われる。どちらの要因も「文化帝国主義」と関連付けて論じることができそうだ。ところで私は、この読書メモと映画メモMP3.COM鑑賞日記のエントリが示しているように、欧米文化の侵蝕を享受しているのであり、「文化帝国主義」という言葉をネガティブな意味合いでのみ使いたいという気は起こらない。むしろ、日本の文化の閉鎖性ゆえに国際競争力が培われていないという感じを受ける局面が少なくないのである。

 英語公用語論の背後にある日本人の英語能力の低さは大昔からずっと嘆かれてきたことだけれども、インターネット時代の新しい事態は、英語が下手なのにもかかわらず、きわめて多くの人が英語を使いたがっていることが如実にわかるようになったことだろう。私は電子BBS(いわゆる「パソコン通信」)を始めたときに、世の中の人々の日本語能力の低さに驚いたものだが、Webの時代には、日本人の英語能力の低さではなく、Webページの作成者たちが日本語のページで(ときには妙な)英語を使いたがることに驚いた。英語教育に携わる人の目から見れば、これはむしろ喜ばしいことだと思う。モティベーションはたしかにあるのである、という風に考えてみればどうだろうか? 無理か?

2002/2/3

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