敗戦後論

加藤典洋 / 講談社 / 97/08/05

★★

久しぶりに読んだ古臭い文芸評論

 『歴史とは何か』でなにかと批判されていたので読んでみた。「群像」95年1月号に掲載された「敗戦後論」、「群像」96年8月号に掲載された「戦後後論」、「中央公論」97年2月号に掲載された「語り口の問題」の3篇が収録されている。世間では、自由主義史観に連なるような新しい保守的な戦後日本観であるとされているようだ。

 とっくの昔になくなっていると思っていた反動的な文芸評論であった。戦前戦後の特定の時期に、太宰なり大岡なりが何かを書いていたとしても、そこから「日本人の戦前戦後」の把握にいたるまでにはいくつかの困難なステップがある。そういうステップをすべて省略して書かれているこの本は、説得力を持たない。

 まあ、論証に説得力がなくても、最終的に書かれている結論らしきものには同意できるかもしれない(というか、ありがちなことではあるが、最終的な結論があって、それに合うような事例を探し出してきて、あたかも演繹したかのように再構成したという気配が濃厚)。たとえば「語り口の問題」で、著者は高橋哲哉の、「あの戦争が『侵略戦争』だった」ことに関するウェットな文を批判して、それが共同性に立った語り口であり、公共化されていない(アーレントのユダヤ人問題に対する接し方が公共化されえた語り口の例として挙げられている)ために、「鳥肌が立つ」という。しかし、この著者はその前の2つの論、「敗戦後論」と「戦後後論」がどのような意味で公共性を獲得していると言うのだろうか。あるいは、著者はブルーメンフェルトがドイツの同化名をヘブライ的な名前に戻さないことを、彼を動かし続ける内的な拮抗として説明するが、そのことと「敗戦後論」の核となっている、著者が解消しなければならないとしている戦後日本人の分裂とはどのような関係にあるのか。

 せっかくユダヤ人問題に言及しているのだから、最初の2つの論で述べているような戦後日本人の「ねじれ」が、別に戦後日本に特殊なものではなく、世界のいろんなところで普遍的に存在するものだという方向に進むのが正しいということは自明だろうに、と思う。個別の現象に立ち返ることはつねに必要だけれども、そこから一歩先に進まないと、この『敗戦後論』のような本は、世界に多数存在する「ねじれ」の1つのケースとして分類されて終わりになるだろう。

1998/6/28

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