放送禁止歌

森達也、デーブ・スペクター / 解放出版社 / 2000/07/28

★★★★

まあいいんだけど

 『スプーン』の著者が2000年に出版した本。同題のTV向けのドキュメンタリー番組(未見)の製作裏話。差別用語が入っているために「放送禁止」となっている歌についての事情を取材している。版元が解放出版社であることに注意。

 『スプーン』と同様に、取材のプロセスそのものを作品に取り込む、「何も知らない私が怪しげな主題に接近していろいろと知りました」というスタイル。このスタイルは日本のドキュメンタリー/ノンフィクションに多く見られるもので、私は好きではない。本当に誰も知らないことであれば、それを知るプロセスを描くことには意味があるが、単に本人の不勉強のせいで知らないようなトピックを扱っている場合には、「知らなかった自分」を愛するナルシズムが先行しがちである。『スプーン』では取材の過程ですら勉強を怠っていたが、本作ではいちおう「メディア上の差別用語の扱いが自己規制であること」と「部落差別」の2つのトピックについて勉強している。しかし、メディア関連の仕事をしておきながら、40歳を超えて、この2つのトピックについて知識がなかったことを告白して悦に入るのはどうかと思う。部落差別については、資料の選定も含めて完全に解放同盟のコントロール下で書いているようだ。

 本作では、『竹田の子守唄』の誕生秘話と、デーブ・スペクターが提供するアメリカのメディアでの差別用語の取り扱いについての情報が面白い。

 最近見たウディ・アレンの映画『ギター弾きの恋』は、1930年代のアメリカを舞台にしている。主人公のショーン・ペンはジャンゴ・ラインハルトを崇拝しており、彼のことを「あのジプシーのギター弾き」と頻繁に表現するのだが、DVDの字幕翻訳は「ジプシー」という言葉を忌避しており、観客がジャンゴのことを生っ粋のパリジャンと思っても不思議ではなかった。また、明らかに唖者に対する差別意識が込められた"mute"などの言葉を、素直に「唖」と翻訳できないでいた。これもまた自己規制の例である。言葉を巡る自己規制を打ち破るのは、たぶん誰にとっても非常に難しい。「別にこの言い方でも意味は伝わる」とか、「文化的意義がある作品であるわけでもなし、これに賭けるのはばからしい」というような言い訳は非常に有効に働くのである。似た例として、日本のフィクションにしばしば登場する「朝毎新聞」とか「三友商事」などの架空の固有名詞、BBSやWeb上でしばしば見掛ける、固有名詞の一部を伏せ字にする習慣、そしてノンフィクションにとっては本当は致命的なはずの証言者の安易な匿名化がある。日本語の世界では、名指しという行為に、言霊信仰と表現することも可能な何か不可思議なパワーが込められているように思える。

 なお、本書が解放出版社の企画であるという理由もあるのだろうけれども、天皇制タブーにほとんど触れていないのが笑えた。解放出版社から出す部落差別の本は、世界で最高クラスの安全度を持つ。この要因を考慮に入れなくても、部落差別は真面目に扱う限りぜんぜん危ない話題ではない。ヤクザを初めとする犯罪組織も、告発型の調査報道以外はそれほど危険ではないだろう。かつてもいまも、一番危なく、最も巧妙に隠蔽されているのは天皇制タブーであり、そこに突っ込む機会がありながらも突っ込んでいないのは、本当に放送不可能になるからだろうか。

 なお、語るに落ちた「後書き」の話。本書の「後書き」の冒頭では、朝日放送の人間の、「どうしても番組にできなかったという結婚差別を巡る話」が取り上げられている。同和教育を教える立場にある教育者が、部落出身の男性と結婚しようとする娘を祝福したが、結婚式の前夜に「露骨な蔑称語を絶叫しながら、猛反対しはじめたという。……その後の話はここに書くことができない。取材をあきらめさせるほどに凄惨な話だ」。これは部落差別が現代の日本にいまだに残っていることを語るためのエピソードとして使われており、著者は朝日放送の人間が「取材をあきらめ」たことに何の疑問も抱かずに共感している。

 これを読んだ私は、なぜその父親を取材しなかったのかと思った。欧米先進国の(特にアメリカの)TV番組を見ていて驚くのは、彼らがときにはやり過ぎではないかと思うほど取材対象に肉薄することである。そのやり過ぎは往々にして「刺激を追い求めるだけの商業主義的ジャーナリズム」として批判の対象になる。一方、日本の状況はそれと正反対の及び腰であり、そのあり方が特に注意を払うことなく書かれたこの後書きの一節に表れているように思う。先進国のジャーナリストであれば、自分が取材をしていてそのような状況に直面したら、むしろ喜んでその父親のインタビューを申し込み、断られたら盗撮するだろう。なんせ、「結婚差別」を巡る番組で、まさにその生きた実例に巡り合ったのだから。背景事情の詳しい説明がないので推測になるが、おそらくこの朝日放送で企画された番組は、部落差別にもかかわらず、2人は祝福されて結婚しましたというオチがないと作れなかったのである。

 日本で部落差別がなくならない理由と、日本のメディアがダメな理由の両方が表れているエピソードだと私は思う。後者については、著者はオウム真理教を扱った本『A』でちゃんと認識しているのだが、大手テレビ局というエスタブリッシュメントの中で番組を作ったこの件では、やはりアンテナが機能しなかったということなのだろうか。

2002/2/11

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