いま、歴史問題にどう取り組むか

船橋洋一編 / 岩波書店 / 2001/09/26

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危険な水域

 あとがきから引用すると、「東京財団が二〇〇〇年四月から二〇〇一年三月にかけて行った「歴史和解問題プロジェクト」における私たち七人の筆者の共同討議をもとに、それぞれの筆者が書いた論文を編さんしたものである」。編者が仕掛けたシンポジウムの議事録が『日本の戦争責任をどう考えるか』。私は、船橋洋一という人はオーガナイザーとしては有能であると認めざるをえない。なお、東京財団がいかなる団体なのかを知らない人は、財団のサイトの「プロフィール」と「政策提言」のセクションを見てみることをお勧めする。

 まだ事態は流動的だが、遠い未来において、9/11事件が日本の言論界に与えた最も大きなインパクトは、挙国一致的な安全保障上の「普通の国家」論への最後のひと押しをしたことと理解されるようになるのではないかと思っている。その1つの象徴は、ノーム・チョムスキーの政治的文章を集めた『9.11』が文藝春秋から出たという事件である。逆の方からの流れは、それ以前の2001年8月に朝日新聞社から『日本の戦争責任をどう考えるか』が出たこと、そして本書が2001年9月に岩波書店から出たことによって象徴される、という風にいちおうこの読書メモでは認定しておくことにする。もちろんどちらの流れも以前からじわじわと進んでいたのだが、あくまでもメルクマールとして。

 本書の「7人の筆者」(藤原帰一(『戦争を記憶する』)、荒井信一、佐藤健生、近藤孝弘、劉傑、李鍾元、船橋洋一)は、従来型のリベラルの態度をベースにリアリスト的な見解を述べており、旧来の左翼的な文章もときどき見られるが、編者の船橋洋一はそうした逸脱を最終章で巧妙に無化し、事実上は自分のアジェンダを前面に押し出しているように見える。

 以下に書くのは私見であり、本書の内容の紹介ではないが、共通点は多い。

 従来の、大日本帝国が20世紀前半に特にアジアの国々対して行った行為について謝罪や補償を行うべきかどうかという議論においては、「日本は謝罪や補償を行うべきである」というリベラルと、「当時の問題は戦後の条約で解決済みであり、改めて謝罪や補償を行う必要はない」という保守派の対立軸が目立っていた。いまでも直観的にこの対立を思い浮かべる人は少なくないだろう。ところでこの枠組みは、特に冷戦が終結してからはどちらの側にとっても完全に合理的なものとはいえない。

 まず保守派の方から。市場経済やグローバリズムが好きな新保守主義の立場から見ると、貿易相手国として重要なアジア諸国に対する日本のイメージは非常に重要である。企業から見れば、謝罪は無償だし、補償は(特に国が支払うのであれば)その見返りとして得られる収益と比べればたぶん些細なコストに過ぎない。今後はこのグループからの「さっさと謝ってしまえ」というプレッシャーが強くなるだろう。冷戦終結以前までこの立場からの声が強くならなかったのは、アジア諸国を経済援助で金浸しにする日本政府の方針がうまく行っていて、「謝るのは嫌だ」という少々ファナティックなグループとプラグマティックなグループの双方を満足させることができていたからである。しかし冷戦の終結後は、相手国の国内事情の変化のせいで、この戦略を続けるのは難しくなってきたように見える。

 次にリベラルの側。従来のリベラルは、日本は積極的に謝罪と補償を行わないとアジア諸国の信頼を勝ち取ることはできないという言い方をよく使っていた。この背後には、上記のうまく行っていた日本政府の戦略は、相手国の非民主的な政府と日本企業に利するものでしかないという考え方がある。ところでこちらのグループにとって、日本がアジア諸国の信頼を勝ち取るべき理由は、日本国の道徳的優位性を確保することぐらいしか考えにくく(もちろんリベラルのいくつかのアジェンダにとって、この道徳的優位性は必要不可欠なものではある)、実際に謝罪と補償を行ってアジア諸国の信頼を勝ち取ってどうするのか、どうなるのかという具体的な展望はあまりないように思われる。そこで私なりの展望を記すと、次のようになる。(1) グローバリゼーションの流れの中で、日本のアジアにおける経済活動がいっそう強化され、ひょっとしたらブロック経済圏の様相を呈する。(2) 東アジアと東南アジアにおける日本の軍事的プレゼンスが強化される。

 上記の(1)については保守派の立場についての記述を参照。筋金入りのリベラルの立場からは諸手をあげて賛成できるものではないだろう。(2)については、直観的に変だと思う人もいるかもしれないが、これはアメリカの孤立主義的な傾向を持つ人々の間の常套句的な論理の流れである。アメリカがとうぶんは東アジアに軍事的プレゼンスを持たなくてはならないとしても、長期的には徐々に戦力を引き上げていくとすれば、そのときにはまっとうな軍事力を備えている民主主義国家たる日本に東アジアの安全保障の責任を引き渡すしかない。そのための必須条件は、日本が太平洋戦争以前の超国家主義的な国家になることはないというアジア諸国からの信頼を勝ち取ることである。逆に、戦後の日本を警戒していたグループにとって(多くの時期でメインストリームであった)、日本がアジア諸国からの信頼を勝ち取ることはまずいことであった。

 日本が仮にアジア諸国の信頼を勝ち得てしまった場合に直面する可能性のある難問の例は、90年代以降のドイツが直面した問題、特にユーゴスラヴィア紛争とアフガニスタンでの戦争を見ればよい。日本のリベラルは歴史問題の取り組みに関して、往々にしてドイツを理想的モデルとして取り上げるけれども、その取り組みが成功してしまうとこういうことになる。

 皮肉なことに、憲法第九条と「アジア諸国の信頼」の両方を支持するというリベラルの立場は日米安保の上に成り立っていたのだと私は思っている。従来のリベラルにとっての今後の選択肢は、(a) 憲法第九条と「アジア諸国の信頼」の両方を支持した上で、日米の軍事同盟の強化を支持するか、(b) 日米の軍事同盟を批判しながら、「アジア諸国の信頼」を諦めるか、(c) 日米の軍事同盟を批判しながら、憲法第九条を諦めるのいずれかになるだろう。リベラルのグローバル・スタンダードに従うならば、たぶん(c)の選択肢が正しい。

2002/2/25

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