心でっかちな日本人

集団主義文化という幻想

山岸俊男 / 日本経済新聞社 / 2002/02/25

★★★★

果たして人はこれで納得するのか?

 著者は『社会的ジレンマ』の人。本書は、進化心理学を注入した社会心理学を使って、日本人の持つと言われる「集団主義文化」の批判的検討を通して、文化そのものの概念を扱う試みなのだと思われる。

 まず個人的な偏見を書いておく。私は、コントロールされた条件下で、少数の人間の被験者を使ってその行動を調べるという心理学的実験を、特に調べる対象が社会的影響の強い行動であり、結論として文化的な違いを引き出そうとしている場合には、あまり信用しない。『女の能力、男の能力』のように、生物学的な基盤があることがはっきりとしている性差の表れ方が文化によって違うという研究や、社会的な影響が強いと思われる行動がどの文化でも見られるという研究を見ると、たしかにその実験は何か意味のあるものを測定しているのだろうと感じる。しかし本書で取り上げられているような、社会的な影響の強いと思われる行動が国によって異なり、それはそれぞれの国の「文化」の違いを表しているというような研究はあまり信用する気になれないのである。そのような違いはたぶんあるのだろうけれども、その種の研究の証拠としての力は、普通の観察者の直感とそれほど変わらないんじゃないかと思う。そのように思う理由はいくつかあるけれども、その代表的なものはサンプリングの偏りと実験者効果(具体的には実験者によるハンドリング)だ。大きな母集団の統計的データをベースにした研究はもうちょっと信用する気になる。

 そういうわけで、本書で論じられている具体的な話、つまり「日本人が集団主義文化を持つという説は本当か」というトピックについてはあまり細かく考える気がしないのである。本書は主に日本人とアメリカ人を対象とした、実験的な「囚人のジレンマ」的条件での協力のしかたを調べる研究を紹介しており、通念とは反対にアメリカ人の方が「集団主義」と呼びうるような行動をとる局面があるというような結論を引き出しているのだが、仮に実験の分析手順が妥当だとしても、結論を「日本人一般とアメリカ人一般」に敷衍するのは無理なように感じる(被験者の選び方が明記されていないので確信はないが、たぶん私の危惧は当たっているだろう)。

 この問題は、「集団主義/個人主義」と呼びうるような行動パターンが、両国の労働マーケットの変化に対する個人の適応であるというような言い方をする結論の部分でいっそう深刻になる。たとえば、日本的雇用関係においては内集団ひいきが合理的な行動となるというストーリーはたぶん正しいだろう。しかし、「日本的雇用関係」と呼ばれるものが歴史的に見て別に大昔から存在するものでなかったことはよく知られているし、見方によるけれども、そのような場に直接に身を置いたのは高度成長期時代の大手企業の従業員ぐらいであろう。では、そのような場に身を置いていなかった中小企業の従業員、自営業者、主婦、子供たちはどうだったのか。通念上は、これらの人々も「日本人的な集団主義」を持つものと考えられている。それは本当なのか、もし本当ならばいかなる経路でこの人々にまで影響が波及したのか、といった疑問が生じてくる。

 それと対照される「アメリカ人」の側の話も話はややこしい。『それでも新資本主義についていくか』は興味深い本だが、これを引き合いに出さなくても、このところ目につくようになった1960〜70年代を回顧するアメリカ映画を見ていればすぐにわかる。アメリカ人はニュー・エコノミー下のアメリカの労働環境を嘆き、60〜70年代(50年代はもっと良かった)のアメリカの労働環境がいかに安定したものだったかを懐かしく思い出しているのである。これは中層階級と下層階級の両方に当てはまることで、「アメリカ的な雇用習慣」はほとんどのアメリカ人にとってやっぱり新しいものなのである。「アメリカ人」という括り方のもっと大きな問題は、そのエスニシティの多様性である。人間を対象とした心理学/行動学で、特に修飾なしに「アメリカ人」という集団が記されている場合、その母集団は多くの場合、中流家庭の出身者の学生で、80年代以前の研究ならばそのほとんどが白人であろう。われわれのカウンターパートとしてはそこだけ見ていればいい、と言ってもいいかもしれないが、「日本人とアメリカ人の比較」の中に北海道の漁師、大阪の工場経営者、テキサスのヒスパニック、ハーレムの黒人などは入っていないということを忘れてはならない。

 そういった具体的な話以外の部分のロジックは、進化心理学の文化に対する適用として妥当なように思われた。ただ、「心でっかち」というような造語のターゲットとなる読者が本書を読んでこれを理解できるのかどうかは私にはわからない。

 なお最後の章には、進歩的文化人の主張がバブル崩壊後にようやく有効性を発揮するようになるという興味深い考察がある。著者によれば、戦後の進歩的文化人が日本的な集団主義を批判したのは時期尚早であり、高度経済成長期の日本には集団主義が必要だった。だからその時期に進歩的文化人の主張が人気をなくしたのは無理はないことである。しかし、バブル経済が崩壊したいまの日本には、彼らが主張していた個人主義が有利になるし、社会全体としても必要になる。

 私の感触からすると、進歩的文化人の主張の人気が完全になくなったのはむしろバブル経済の時期以降なのだけど、これは勘違いなんだろうか。このあたり、個々の人の立ち位置によって受け取り方がずいぶんと違うようではある。

2002/3/11

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