流血の魔術 最強の演技

すべてのプロセスはショーである

ミスター高橋 / 講談社 / 2001/12/10

★★★★

楽しい話がいっぱい

 元新日本プロレスの名物レフェリー、ミスター高橋の内幕暴露本。引退後に作るはずだった警備会社に関する約束を会社側に反故にされたことへの報復と噂されている。タイトルと副題にあるように、新日本プロレスの試合がすべてショーであることを明らかにしている。「プロレスは八百長である」という世間の常識からすれば当たり前のことだと思うかもしれないが、(1) マッチメイキングに深くかかわった重要人物による暴露であること、(2) それがインサイダーにしか知り得ない細かい記述によって支えられていること、(3) 「すべて」の試合がショーであると述べていることに重要性がある。

 最後の点についてもう少し詳しく述べれば、普通のプロレス・ファンは、プロレスの試合はショーであるとは思っていても、「すべて」の試合について予め試合の大まかなストーリーと勝ち負けが決まっているとは思っていなかったと考えられる。もうちょっと「ぶれ」があると思い、その虚と実のせめぎあいを楽しむというのが一般的なアプローチだったろう。そこでは、大部分が演出されたものであるという暗黙の諒解が、演出からの意図しない逸脱の価値をいっそう高めるというメカニズムが働く。リアリティTVの楽しみ方と似ていると言えるかもしれない。

 私はこのところプロレス関連をちゃんと追っていないので、いまの時点での一般的諒解がどのあたりにあるのかを知らないのだが、本書の記述のいくつかは、かなりシニカルなプロレス・ファンにもけっこうな打撃を与えたのではないかと思われる。なお、アントニオ猪木のモハメッド・アリ戦とアクラム・ペールワン戦についてはセメント(真剣勝負)だったとしている。言及の仕方はかなり辛辣だが、その辛辣さはこの2つの試合の神話としての価値をかえって高める可能性がある。

 著者が本書を執筆した動機は、噂されている報復という側面以外には、日本のプロレスがK-1やPRIDEなどの格闘技に押されて人気をなくしていることに対する危機感である。このまま衰退していくのを避けるためには、アメリカのWWFのように、完全なショー化を目指すしかないと著者は考えている。本書には興味深い逸話が多数載っているが、特に面白かったのは、演出をリアルに見せるために内輪の仲間までをも騙す事例だった。小林邦昭と斎藤彰俊のプロレス対カラテ抗争では、その「抗争」を企画した当事者たちは下っ端の人々にそれが演出であることを隠した。誠心会館の門下生たちは、プロレスとカラテの間で行われている抗争が本物だと信じており、それがこの企画の迫真性を増した(46ページ以降)。もっと面白いのは、アントニオ猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを受けて失神した1983年の試合の件。マッチメイカーの坂口征二は猪木の勝ちというシナリオを書いていたが、猪木はその裏をかいて、周囲に知らせることなく舌を出して昏倒するという演技を行った。あのときの周囲の人々のあわてぶりはリアルなものだったということになる。坂口は翌日に、「人間不信」と大きく書いた紙を残して姿を消していたという(170ページ)。

 このように、プロレスにおけるシナリオ・ライティングは、プロレス団体が「プロレスは八百長ではない」と表向きは述べているために、内輪の手作りのものとなる。アントニオ猪木の天才を失った新日本プロレスは、決して優秀でない自前のシナリオ・ライターを使うしかなく、プロレスが面白くなくなるのもとうぜんである。プロレスをショーとして売り出す腹を決めれば、外部の構成作家を雇うなどして、もっと面白い演出ができる、と著者は考えている。

 個人的には、ちゃんと見ているわけではないのだが、WWFを面白いと思ったことがない。これは、ジャン・クロード・ヴァン=ダムやスティーヴン・セガールの最近の映画をつまらないと思うのと同じことで、エンタテインメント作品の指向性に関する好みの問題である。日本のプロレスが、たとえばTV番組の構成作家を採用してシナリオを作ったとしても、私にとって面白いものになるかどうかは疑問だ。

 しかし、私にとって面白いかどうかは別にして、題材を真っ向から扱ってちゃんと力を注ぐという態度はまことに正しいと思う。従来の虚と実のせめぎあいを楽しむインテリ風のプロレス愛好は、にっかつロマン・ポルノの鑑賞の仕方とよく似ている。日本のポルノは、局部にボカシが入るという制約があってかえって「文化的に高度に発達した」という理屈が使われていたけれども、これは不自由な状況を正当化するための詭弁であったと思う。真剣勝負と見世物の境を曖昧にするこのような態度は、真剣勝負と見世物の両方の前線での品質の向上を妨げ、結果として国際的な競争力のない作品を生み出してしまう。多様な選択肢が与えられている今となっては、消費者が中途半端な日本製プロレスから離れても仕方がないだろう。

 本書に描かれている、かなり周到な「アングル」(演出のことを指す用語)の数々を読んでいると、本書の出版自体が何らかの新しい「アングル」なんじゃないかと思えてくる。そういうことまでをも気にしながら鑑賞しなくてはならない娯楽は、カジュアルな消費者にはちょっと荷が重すぎる。

2002/3/18

 インテリのプロレス・マニアから抗議の電話があったので追記。

 そのインテリのプロレス・マニアのこの本に対する不満は、知性の低いライターが、真にプロレスを愛する者の心の機微を解することなく的はずれなことを書いていて、それが売れている、という点に集約されると思われる。なんでも鴻上尚史が書評かなんかで、本書はプロレス・ファンに大きな打撃を与えるものだというようなことを書いていたのを読んだらしく、プロレス・ファンは本書の暴露話などでは打撃は受けないのだ、打撃を受けるとすれば、これが打撃になると思われてしまったことと、「何が面白いか」という意味での細部への視線のレベルがあまりに低すぎることである、というようなことを切々と述べていた。「この本の著者は、人がなぜプロレスをやるのか、プロレスを見るのか、ということを何も考えていない」という言葉は私の心に響いた。

2002/3/18

TRCの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ