日本語のできない日本人

鈴木義里 / 中央公論新社 / 2002/03/25

★★

まとまりがない

 著者は『論争・英語が公用語になる日』の編者。本書は若者の日本語力の低下とか言葉の乱れについて、いろいろな側面から論じている。まとまりがない内容で、何が言いたいのかよくわからなかった。

 「若者の日本語力の低下」について、世の中ではいろいろと言われている。本書では「漢字が読めない」とか「本が読めない」などのトピックが取り上げられている。まず漢字を含む語彙について。私は若者ではないが、江戸時代や明治時代どころか、昭和初期の日本語の漢字も自然体では読めない。主観的には、英語の16世紀の文章以上に違うように感じる。この日本語の不安定さは悩みの種ではあるけれども、そういうもんなんだと思って諦めてきたわけだ。そこから、たまたまいま使われている語彙のセットを特権視する理由がないという結論も生まれてくる。

 「本が読めない」について。最近の若者は本を1冊読み通すことができず、それ以前に文章をちゃんと読んで書くということができないという嘆きはときどき聞く。ところで私は共通一次試験の世代の人間で、選択回答式の「国語」の試験を受けたわけだけれども、当時からあのような試験の平均点が200点満点の190点ぐらいにならないことを不思議に思っていた。たしかに「外国語」と位置づけるべき古文・漢文の問題が入っているから、平均点がもうちょっと下がっても仕方がないかもしれないが、現代文の問題については、必ず1つか2つは紛れ込む「出題者の方がバカ」というべき問題を除けば、全問正解するのが当たり前じゃないか、と。

 しかし世の中はそういうもんじゃなかったのである。1つか2つのパラグラフを引用し、「次のうち、この文章の内容として適切なものを選べ」と命じる問題が、選別を目的とする入試問題として成り立つのだ。大昔から日本人は、「次のうち、この文章の内容として適切なものを選べ」と命じる問題の得点に一定の分散が生じるような読みをしてきたのだと思われる。その後、いくつか衝撃的な体験を経た上で、私は日本人一般の日本語読解力に関してそうとうペシミスティックな考えを抱くようになった。「いまの若者の状態はそんなもんじゃないんだ」と言われても、それほど新しいことだという感じがしない。昔の人はもっとドストエスキーを読んでいた、トルストイを読んでいたといっても、何をどれほど理解して読んでいたかどうかは疑問である。それがファッショナブルだったということに過ぎないんじゃないか?

2002/4/1

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