ダ・ヴィンチの二枚貝

進化論と人文科学のはざまで

Leonardo's Mountain of Clams and the Diet of Worms

スティーヴン・ジェイ・グールド / 早川書房 / 2002/03/31

★★★★★

これは良い

 著者が『ナチュラル・ヒストリー』に連載しているエッセイをまとめたものの8作目。原著の出版は1998年で、連載そのものは2001年1月号で終了している。『干し草のなかの恐竜』はシリーズ前作。『暦と数の話』『フルハウス 生命の全容』はシリーズ外の本である。

 私はグールドの本が基本的に嫌いだったのだが、『干し草のなかの恐竜』はけっこう普通に読めて驚き、本書にいたってはかなり満足してしまった。私の感性が変わったのか、グールドの書く物が変わったのかよくわからないが、私はどちらかといえば後者だろうと思っている。人によってはパンチがなくなったという不満を感じるかもしれない、余裕をもって書かれた穏当な科学啓蒙書になっている。

 本書で特に面白かった話を2つ書き留めておく。1つは、16章「長い長いほら話」で取り上げられている、ダーウィニズムとラマルキズムを比較対照するときによく使われる「キリンの首」の問題である。著者は、もともとこの「キリンの首」の例が、ダーウィン本人はもちろん同時代の人々にもほとんど使われていなかったことを指摘する。実際の経緯はもっと入り組んでいて興味深い。いずれにせよ、この部分を読んで、昔抱いたものの深く追求せずに放っていた疑問が解決した。いや要するに、進化論を説明する際に使われる「キリンの首」は、どう考えてもダーウィン流の自然選択の積極的な証拠にはなっていないじゃないか、という疑問である。少なくとも、他人に物を説明するときに便利に使える自明な例としては成り立ちにくい。それ自体でラマルキズムの(または創造論の)反証になっているわけではないし、自然選択の積極的な証拠にもなっていない。

 著者は、「キリンの首」はもともとそういう目的で使われたことはなかったし、現在に至るまで、「キリンの首が長くなったのは、高いところにある葉を食べられると有利だから」というような俗流解釈を裏付ける生物学的な知見は得られていないと述べる。高いところにある葉を食べられるという能力は、副次的なものである可能性もある。

 もう1つは、17章「裏返しの関係(あるいは一寸の虫の居直り)」で取り上げられている「収斂進化」の概念の問題である。下巻154ページより引用。

ここ一〇年ほどのあいだに起こった見解の逆転は仰天すべきものだった。かつてマイヤーは、異なる動物門間でわざわざ遺伝的な相同性や発生経路の共有を探し求める必要はないと述べた。それが今や、ショウジョウバエの発生経路を司る基本的な遺伝子の相同遺伝子が脊椎動物でも見つからなかったとしたらそれこそ驚きだという、対極の立場に立たされてしまった。

 進化の系統上、まったく違う位置にある生物が、互いに似た器官を持つようになるという現象は「収斂進化」と呼ばれ、生物が自然選択の圧力を受けて、環境に適応した似たような機能と器官を独自に発達させることができることを示す、自然選択の積極的な証拠の1つと考えられてきた。ところが近年の遺伝子レベルでの発生学の進歩のおかげで、このような「収斂進化」のいくつかが、実は同じ遺伝子によってコントロールされているということがわかってしまった。そうすると、これは自然選択の積極的な証拠というよりも、同じ遺伝子が環境によって違う形で発現することの例、になってしまうわけである。実際に確認したわけではないが、グールド自身も、本シリーズの初期の本では、特に創造論に反論する目的で、この「収斂進化」の概念を援用しているんじゃないかと思う。

2002/4/15

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