英語でコミュニケーションできてますか

田畑智通 / 光文社 / 2001/12/10

★★

英語帝国主義そのまま

 英語でコミュニケーションを行う際には、英語話者の文化を理解しておかないといけないということで、日本語を直訳すると意味不明になる文と、意味不明ではないが不適切な文の両方について、「正しい英語」の例文を大量に収録している。日本人がアメリカに出張するとき、留学するときなどに、周囲から変人と思われないようにするための手引きであり、「正しさ」の背後にある文化習慣のロジックについての解説がある。

 たとえば、相手を積極的に誉めよ、誉めるのが正しい作法であるということで、誉め言葉の例文が並べられている。その他、お店ではちゃんと"Thank you"と言えとか、ビルの廊下で見知らぬ人と視線があったときにはニコっと笑って挨拶せよとか、混んでる電車で人をかき分けて進むときは"Excuse me"と言えとか、まあそういった事柄にまで言及している。

 たまたま、英国のパキスタン移民の家族内文化衝突を描いた映画『ぼくの国、パパの国』を見たばかりだったので、本書の内容が、英米などの先進国の都市で自分を中流階級に見せかけるためのマニュアルであるということを強く意識せざるをえなかった。まあ日本人にとってはぴったりの内容なのかもしれない。

 こういうタイプの議論を読んでいつも私が思うのは、論者が外国人向けの日本語マニュアルを書くときにはどうするのだろう、ということだ。あなたが外国人に日本語と日本での生活の仕方を教える立場に立ったとしよう。そのとき、あなたはたとえば「レストランに入ったときにはお店の人に挨拶するべきではない」、「道ですれ違った他人にニコっと笑いかけるべきではない」、「日本人と話をするときは視線を泳がすべし」と教えるだろうか? おそらく多くの教師は、これらを禁止事項としてではなく、単に習慣の違いとして教えているものと思われる。そして、教師を含む多くの人は、これらの日本的習慣は良くなく、本書に記されているような「フレンドリー」な習慣が良いという価値観を内面化していると思われる。私は「日本人が会話のときに視線を泳がすのは、相手との緊張関係を緩め、相手の発言を誘い出すための手段であり、有効に活用するべきだ」というような積極的肯定の議論を聞いたことがあまりない。

 別の方面から論じてみよう。「流暢に日本語を喋る外国人」という概念がある。あまり指摘されることを聞いたことがないが、ネイティブな日本語話者が外国人の日本語の流暢さを測る上で、その外国人話者が上記のような「日本的文化」を身につけているかどうかは大きな比重を占めているように思う。発音の上手さや語彙の豊富さは最低限必要であるとしても、流暢であると認定されるためには、たとえば外国人話者が会話の中で日本人的な相づちを打つとか、視線をそらすとか、わざとらしくニコっとは笑わないとか、カタカナ外来語を日本人っぽく発音するといった日本人的態度を見せることが重要である。われわれは果たして外国人がそこまで「流暢」に日本語を喋ることを望むだろうか?

 たぶんそうではないだろう。外国人に対してそこまで望むのは無意味だ。外国人は語彙、文法などに気を付ければよいのであり、その人のバックグラウンドとなっている文化はそのまま持ち込んでもいいとわれわれは思っている。街角で「外人」がニコっと笑いかけてきたら、「外人さんなんだから仕方がない」と思うわけである。

 ところが、このような態度は今後、大きな挑戦を受けることになると思う。グローバリゼーションの時代を迎えて、日本の社会には、われわれがまだ内面化していない文化習慣を持った外国人が大量に入ってくることが予想される。「グローバリゼーション」よりも前から起こっていた「三国人」の問題を考えればよい。彼らの日本語のしゃべり方が差別的扱いのトリガーになっていたことは明らかであり、たとえば韓国語/朝鮮語とこれを母語とする人の日本語の一種の「激しさ」が日本人の耳には洗練されていないものに聞こえるということはよく言われる。ではわれわれは、欧米人には欧米風の発音と習慣を許し、コリアンやチャイニーズやその他の異文化出身者には日本語風の発音と習慣を身につけることを推奨するべきなのだろうか? 日本語が外国語である日系外国人や、日本語が第2言語であるマルチリンガルの日本人はさらに微妙な立場に立たされる。

2002/4/30

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