ノーベル賞経済学者の大罪

Vices of Economists, The - The Virtues of the Bourgeoisie

ディアドラ・N・マクロスキー / 筑摩書房 / 2002/10/10

★★★★★

それ言われても困っちゃうんですよ的指摘

 どこかで見た名前だと思っていたら、『性転換』の人だった。50歳を越えて性転換手術を受けて女性になった経済学者である。その事情を汲んで、翻訳はオカマ文体というかオネエ言葉になっている部分がある。勘弁してほしい。

 現代経済学について「そう言われても困ります」と返すしかないような根本的指摘をする本。著者によれば、経済学者に個別に話をすれば、みんな「そのとおり、私もずっとそう思っていました」と答えるが、いざ公の場で口にすると反感を買うそうである。その論点は次の3つ。(1) 経済学における統計的検定の使い方の問題、(2) 数学重視の傾向の弊害、(3) 社会工学の不可能さ。

 (1)について。著者が指摘する問題はいくつかのレベルにわたっており、ごく単純に統計学の使い方が間違っていると言えば済むような話もあるのだが、最も重大で本質的なのは、突き詰めれば次のようなことだと思う。つまり、データの量が不足しているために、統計的に有意な結果が出なかったからといって、重大な仮説を否定するべきではない、ということだ。これを著者は、統計的な有意性(statistical significance)を科学的な重大性(scientific significance)と混同してはならない、というふうに表現している。

 経済学は政策決定のツールとして使われる、社会への影響力の強い学問である。一方、経済統計を扱う実証的研究では、コントロール下で実験を繰り返すことができないため、既存の統計データの解析が中心となる。このデータは、必ずしも、小さい効果が検出できるほどのボリュームにならない。でも、統計学者は5%なり1%なりの有意水準を使って、有意義な(であるかもしれない)仮説を否定しがちである。要するに、どんな教科書にも書いてある、「検定とは、帰無仮説が棄却できるかどうかを調べるものである」という理屈がちゃんと通っていないということだ。私は経済学の論文を読んでいるわけではないので、これが本当なのかどうかは知らないが、まあありそうなことだなとは思った。

 これに関連して著者は、統計的な有意性は経済学者の信念を覆すきっかけとはならないということ指摘している。これは特に、自由な市場と政府による介入をそれぞれどれだけ信頼しているかという点に関わっている。経済学者がどちらの立場を取るかは最初から決まっており、他の学者がそれに反する統計的に有意な結果を出したために立場を変えることはありえない、という。これはまさに、理論が個別的反証によって覆ることはないという「パラダイム論」的な話、つまりポパーの「反証可能性」が実践の場で成り立たないことの証拠ではあるのだが、著者はもうちょっと論点を絞って、このように統計的な有意性は無用なものなのだから、こだわるのはもうやめようじゃないかと述べるにとどめている。

 (2)について。経済学の病的な数学重視は生産的でない、ということだ。これは、数学コンプレックスを持つ「文科系」の学問にときおり見られる症状だが、経済学の場合はそれが極端に走っている。著者は、物理学者と経済学者のジョイント会議で、物理学者の側が経済学者のあまりの数学重視にびっくり仰天したというエピソードを紹介している。その代わりに著者が重視すべきだと思っているのはシミュレーションである。簡単に言えば、問題を数学的に解くことを重視するのではなく、基本的なパラメータを設定してシミュレーションを行う実験科学を目指すべきだということ。

 (3)について。著者は社会工学全般について、それによって得られた知見が現実にフィードバックするという理由から、必ずうまく行かないと述べる。株価の上下を予測して儲けるのは不可能だ、というのと同じ理屈である。これは、著者が行った、オランダにおける都市計画についての経済史的研究から出てきた教訓ということらしい。特定の地区を開発するという計画を立てると、それをかぎつけた者が土地の買い占めに走り、地価が上がるということが実際に起こったようだ。

 そういうわけで、主張そのものは別に新奇なものではない。たぶん多くの人が同じ考えを抱いており、内々のサークルでは当然のことのように口にしているだろう。ただ、自分の学者としての職や活動の根本を揺るがす考えなので、公言はできないのである。私は、科学というものは最初からそんなもんだと考えているのでとりたてて驚きもしないが、著者はロートルの経済学者として、いまの経済学が研究プログラムとして非生産的な方向に走っていると感じて焦っているようだ。

 なお、本書の内容から外れるが、統計学の使い方一般について一言。「トンデモ」という言葉を使いたがる啓蒙家は、「統計学を正しく使え」という趣旨で、「こういう説があるけれども、ちゃんと統計的に処理すれば有意な結果は出てこないのだから、信用するべきではない」という論理を使うことが多い。これは、本書で著者が批判している統計の不適切な使い方であることがしばしばある。科学的なアプローチを装う啓蒙家には注意しなくてはならない。「有意水準に達しなかったために、効果がないという仮説を棄却できなかった」ということは、「その効果がない」ということではない。そんなことは当たり前であるのにもかかわらず、このタイプの啓蒙家は、自分の信念に反しているケースでは、有意水準に達する結果が得られなかったことが、そのまま効果の不在の証明であるかのような言い方をしたがる。一方、普通の科学の実践においては、直観的にその効果がありそうだと思ったら、有意な結果が出なかったとしても「さらなる実験とデータ収集が必要である」という風にまとめるのが常道なのだから、ここにはダブル・スタンダードがある。

 たとえば、「ユリ・ゲラーがテレビ番組で念を送ると、それを見ていた視聴者が手に持っていた、それまで長い間止まっていた時計が動き出した」とか、「大きな飛行機事故の前に、予知夢を見た人が何人もいた」というような逸話について、啓蒙家はよくこんな議論をする。「その番組の視聴者は全国で数百万人、数千万人の単位でいる。その中には、ちょっと揺らしたり温めたりしただけで不意に動き出すような時計を持っていた人が一定の割合でいるはずだ。だから、視聴者のうちの何人かがそういう体験をしたとしてもまったく不思議ではない」。しかし、これはちょっと考えてみればわかるように、「超常的な現象が起きた」とする仮説に対する反論にはなっていない。最初に、「そんなことはありえない」という信念があって、そのような現象が偶然に起きる確率を(ほとんどの場合は実際に実験や調査も行わずに)逆に推定しているだけなのである。また、本書の言葉を使わせてもらえば、これは統計的有意性と科学上の意義を混同した議論である。動き出した時計の1000個のうちの999個までが、そのようなノーマルな因果関係で動き出したのだとしても、残りの1個がノーマルでないメカニズムで動き出したのだとしたら、それは科学的には大きな意味を持つ現象である。

 この話を突き詰めるといろいろと厄介な問題が出てくるのだけれども、この項ではここまでにしておく。まあしかし、世の中に上記のような理屈にならない政治的議論をする人が少なくないことから、論争が多い経済学の分野にもそういう人が多いのだろうなと思ったというわけだった。

2002/10/12

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