ゲーム脳の恐怖

森昭雄 / NHK出版 / 2002/07/10

衝撃的な書

 帯には次のように書かれている。「テレビゲームが、子どもたちの脳を壊す! 脳波データの解析で、その恐ろしさが明らかに。」。著者は脳神経科学を専門とする日本大学教授。ゲームをプレイしないわけでもない私としては、手に取らざるをえない本ではあった。

 著者は高齢の痴呆者の脳の状態を、「前頭前野領域の頭皮上から記録されるα波とβ波の比を求めることで、約85%判定できる機器とその方法を確立してきた」(21ページ)という。以下、同ページから引用。

痴呆者は前頭前野の働きが低下していき、β波の出現状態がα波のレベルまで低下し接近してくるようになります。そして、痴呆の重い人はβ波とα波のレベルが完全に重なってしまいます。
テレビゲームをしている子どもたちの脳波の状態を調べようと思ったのは、ある意味で偶然でした。
この機器を製作する過程で、機器の調子をみるため実験的にソフトウェアを開発していた人たち八人の脳波を記録してみたのです。すると、八人が八人とも、痴呆者と同じ脳波を示したのです。機器が壊れているのか、設計上のミスかと思いました。そこで別の人、第三者の脳波を記録したところ、機器はまったく正常に働くのです。つまり、これは機器のせいではなく、ソフトウェア開発者の前頭前野の機能低下が生じていたわけです。

 だからこの脳波パターンは痴呆の確実なインディケータではない、という結論にこの人は向かわずに、学生にゲームをしてもらい、その前後での脳波を調べるという実験に着手するのだった。

 データを集めた結果、脳波パターンは(けっこう主観的に見える)4つのタイプに分類できることがわかった(72ページ)。α波とβ波が重ならない「ノーマル脳人間タイプ」、ゲームを始めると重なる「ビジュアル脳人間タイプ」、ゲームをしていないときでも重なっている「半ゲーム脳人間タイプ」、そしてβ波がほとんど出ていない「ゲーム脳人間タイプ」である。これらのタイプの説明がまた凄く、本書が一般人向けの新書だという事情を勘案しても、この人が二重盲検法を採用していないこと、脳波の4つのタイプを被験者の印象に関連付けて決めていることが読みとれる。引き出される結論も非常にバカバカしいもので、紹介する気にもならない。

 著者はビデオ・ゲームをまったくやっておらず、最初からネガティブな固定観念を抱いている。もうちょっと問題領域に関する知識がある人ならば、研究はまったく違った方向に進んでいくだろう。たとえば、この脳波パターンが他の活動でも見られるのではないかと考えて、楽器演奏、瞑想、思索一般、ジャグリング、弓道とか射撃などのスポーツ、数学の計算問題などの課題を行っているときの人間の脳波を調べるだろう。本書でもゲームのタイプによって脳波のパターンが異なるという結果が示されているが、β波の活動が低下するタイプのゲームをプレイしているときの主観的状態は、上に示したような活動と非常によく似ていると私は思っている。シューティング・ゲーム、テトリスなどのパズル・ゲーム、対戦格闘ゲームなどの反射神経型アクション・ゲームでは、目や耳から入ってきた情報を処理し、手の動きとしての出力を出すプロセスを極力短縮する必要がある。そのためには、意識の言語的プロセスをバイパスする情報処理経路を確立しなくてはならない。要するに「体に覚え込ませる必要がある」ということだ。

 だから、私の考えでは、著者は「ノーマル脳人間タイプ」の脳波パターンの解釈を完全に間違えている。ゲームに慣れていない人は、プレイの仕方を体に覚え込ませていないので、余分な言語的プロセスが働いている。それが、β波が低下しないことの意味である。楽器演奏の例で考えてみれば、この実験は、たとえばフルートを吹いたことがない人とフルート演奏に熟練している人にフルートと楽譜を渡し、「さあ吹いてみてください」と言って、そのときの脳波の状態を調べているようなものだ。たぶん、ゲームの場合と同じように、前者はβ波が低下せず、後者は低下するだろう。

 楽器演奏の場合は、習熟度を定量化することができないが、ゲームの場合にはうまくコントロールしてやれば、たぶん「得点」と脳波パターンの相関が出てくると思う。

 そのことと、β波が低下する状態が、人間の脳の長期的な成長と発展にネガティブな効果を与えるかどうかは、また別の問題である。著者は、そのような状態がネガティブであると考えているが(だから「ゲーム脳」について警告しているわけだ)、その根拠はよくわからない(それが痴呆者の脳波の状態と似ている、というのは何の根拠にもならないのは当たり前のこととして)。仮に、本当にそうだとしたら、楽器演奏とか瞑想とか思索一般とかジャグリングとか精神集中型のスポーツとか計算問題とかも、青少年には有害であるという結論が出てくるだろう。いやまあ、本当にそうなのかもしれません。

2002/10/20

 ゲームに関連する記述がよくわからないという指摘が来たので、追記。なお、内容のほとんどは、ほんとにゲームについて何も知らないという人を対象としており、ゲームをやっている人にとっては当たり前のことが多い。

 たとえばスクロール式の2次元シューティング・ゲームを考えよう。このタイプのゲームで先に進むためには、まず敵機のパターンを理解して覚える必要がある。これは「攻略」と呼ばれる活動で、調査、分析、理論化のサイクルを持つ言語的プロセスだ。しかし、いったん理論化を行ったプレイヤーは、理論から導き出された戦略を何も考えずに適用する。そもそも、人はいちいち個別的に考えるという無駄をなくすために理論化を行い、抽象化された定理を作るのである。

 徹底的に攻略を行ったとしても、たいていのシューティング・ゲームには反射神経で敵機の弾を避けていかなくてはならない場面がいくつも出てくる。そして、ゲームに慣れていない人は往々にして勘違いしているのだが、それは単に自機の前に来た弾をよけるという行動ではない。画面に敵機がいくつも出現し、たくさんの弾がそれぞれ異なる角度と速度で飛んできているという状況を考えよう。上手なプレイヤーは、この画面全体を見て、1秒後、2秒後、n秒後にそれらの弾が画面上でどのような配置になるかを把握し、その一連の配置をもとにn秒後まで生き残れる安全な経路を見つけ出すのである。というか、そうしているとしか考えられない名人芸をやる人が世の中にはいる。これはチェスや将棋の名人が100手先までを読む、というのと似ていると思う。

 「攻略」は言語的な活動であるが、瞬間的に先を読む活動は、たぶん言語的プロセスを介在させていたのでは間に合わない。チェスや将棋の場合には言語的に考える時間がそこそこあるが(ただし多くの名人は、それが普通の意味での「考える」プロセスではないと証言している)、アクション・ゲームの場合にはきわめて短い時間での処理を繰り返して行う必要がある。

 すべてのタイプのゲームにおいてすべての人がそうやっているということではないが、ある種のアクション・ゲームにおいては、上手にプレイするためには、このタイプの非言語的な(たぶん視覚的な)、おそらくは非アルゴリズム的な、ニューラル・プロセッシングに似た処理を行わなくてはならない。そして普通の人間は放っておけば言語的プロセスが働いてしまうので、それを抑制する訓練が必要となる。たとえば野球のバッティングに関する、「雑念を振り払え」とか「何も考えるな。ボールだけを見よ」とか「練習すれば体が動いてくる」といった助言は、これと同じことを言っている。世間で使われる「精神集中」という言葉は、たぶんほとんどの場合、この言語的プロセスを抑制することを指している。

 というのが、私のこれまでの理解であった。関心がある方は、いわゆる「サヴァン」と呼ばれている、言語能力に劣るがビジュアルな処理に秀でている人々についての話(ただし言語サヴァンというのもいる。この読書メモでは『ことばはどこで育つか』ぐらいしか関連書籍がないが、いろいろと本は出ている)や、たぶんその連続線上にある自閉症(オーティズム)についての話(自閉症の人の手記『Thinking in Pictures』が素晴らしい)、そして認知科学がらみの分野でのコネクショニズムの話(コネクショニズムと計算主義のすりあわせを行っている『考える脳・考えない脳』が面白い)などを参照されたい。

 そういうわけで、本書に出てくる「ふだんゲームをやらない人のβ波が低下しなかった」という現象は、単に「慣れていなかった」または「精神集中ができてなかった」と表現できる事態なんじゃないか、と私は思ったのである。

 しかし、前に書いたように、そのことと、このような脳波の状態の1) 脳の発達期、2) 通常の社会生活、また3) 非日常的な場面における「価値」は別の問題である。これはもともと難しい問題だが、ここ10年ほどの、人間の精神活動の生物学的基盤の重視の流れの中では、いっそう厄介な話になる。

 社会生活の中で、言語的活動がなかなか生じないという状態を、ひとは「効率的な情報処理」と呼ぶことがある。外界からやってくるすべての信号にいちいち言語的に反応していたら、ひとは街を歩いていても1つ1つの草木に目をやってその名前を考え、1本1本の電柱の状態に関心を抱き、毎日の通勤・通学に何時間もかかってしまうだろう。本を読んでいて、1つ1つの文の文法的な組み立てを考え、1つ1つの単語の意味を深く検討していたら、1冊の本を読み通せないだけでなく、全体の意味を把握できなくなるだろう。ひとは外界をパターンとして認識し、新奇な情報がなければその細部を意識から排除するメカニズムを備えている。脳に障害を負った人のあいだには、このメカニズムが壊れたためか、パターンやコンテキストが把握できないという症状が見られることがある。

 この種の情報処理能力には個人差があり、そのうちの一部は生得的であり、一部は発達期に決まってその後は可塑性がなく、一部は訓練によって変えられるのだと思われる。発達期に決まって可塑性がない部分と訓練によって変えられる部分をどうするかという問題は、それぞれ教育と生き方の価値観にドライブされる。生得的に決まっていて、個々人の(またはその親の)努力ではいかんともしがたい部分について、それをどう評価するかは、バイオエシックス上の問題となる。

2002/11/11

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