科学論の現在

金森修,中島秀人 / 勁草書房 / 2002/04/20

★★★★

まあ普通

 金森修(『サイエンス・ウォーズ』と中島秀人(『橋はなぜ落ちたのか』)を含む8人による、教科書として使うことも念頭に置いた概説書。帯には「トーマス・クーン以降の科学論を総括し、21世紀を展望する」とある。

 第I部「科学論の理論的基礎」ではSSK、実験室研究、テクノロジー論を扱い、第II部「科学論と社会のインターフェイス」では科学教育、コミュニケーション、政策を扱い、第III部「科学論最前線」ではレギュラトリー・サイエンス、実験装置論、カルチュラル・スタディーズを扱っている。

 率直な印象を言うと、いずれも「常識の範囲内」である。クーンを起点とする相対主義/懐疑主義がいったん極端なところまで行った後に、外部的要因と内部的要因によって揺り戻しが起こり、「まあそんなところで手を打ちましょうかね」というあたりに落ち着いた、という感じだ。著者グループが1990年代の「サイエンス・ウォーズ」を強く意識しているということもあるのだろう。これが「科学論者」全体のポピュレーションを代表する状態なのかどうかは、私にはよくわからない。

 いずれにせよ、「社会の中の科学」という観点に重点が置かれている。これは興味深い話題ではあるのだが、「社会学」や「行政論」の分野の話なんじゃないかという思いは強く残った。特にテクノロジー論、科学教育、コミュニケーション、政策、レギュラトリー・サイエンスのジャンルは、官僚養成用の学部やビジネス・スクールで教えられ、研究されるような話題である。つまり、社会と科学の関係を最適な状態に持っていくためのテクニックが研究対象となる。これは興味深い話題ではあるけれども、「科学論」はずいぶんと凡庸なものになってしまったんだなという感慨があった。と思いながら「あとがき」まで読み進めると、金森修が次のようなことを書いていた(267ページ)。

……だが、市場原理の先鋭化と、それをサポートする法的・行政的システムとの密接な連携が一層の精緻化を増すなかで、巨大資本がその背景では必ず動く科学技術が「社会」との界面にたたされるとき、その軋轢を和らげる潤滑剤のようなものとして、一部の科学論は機能し始めている。下手をするとそれは、既得権を抱えた巨大権力の「社会問題担当官」のようなものになる。そして、どうしても完全には統御できないローカルサイトの異議申し立てを巧みにかわし、説得し、問題点の鋭利な切り口をなし崩し的に鈍らせてしまう一種の先兵として機能するようになる……(中略)。だが、SSKが瓦解する果てに、もし科学論が、一種の洗練されたPA (Public Acceptance)の担い手として再登場するとするなら、それはいったい、なにを意味するのだろうか……

 それでまあ、少しは安心したという次第である。というのも、それまでの各節の論調は、全体として、科学論がアクチュアルな問題に関わることをただただ肯定的に評価するというようなものだったからだ。私は特に「巨大資本」とか「巨大権力」という言葉に関連付けた議論はしたくないけれども、このまま事態が進めば、この分野が官僚や企業の広報担当者の育成装置になることは目に見えていると思う。

 こういう風になったことについての理由として、著者らは、科学と社会の関係の複雑化ということを挙げる。相対主義の流行の背後には科学=企業=権力の連合と市民という対立概念があったが、グローバルな気候変動とか狂牛病とか遺伝子工学などの新しい話題はもっと複雑な構造を持っているということだ。このような状況の中で、「科学論」の論者たちは、自分たちを社会と市民の間のインターフェイス、ファシリテーターなどのニッチに位置付けて生き残りをはかっているわけである。

2002/11/11

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