これがニーチェだ

永井均 / 講談社 / 98/05/20

★★★★

ニーチェに関する文芸評論

 ニーチェが書いた文章の中にある矛盾を、「同じ言葉に複数の意味を割り当てる」、「議論の空間を複数設定して分割する」という方法によって解消しようとした本、という風にまとめたくなる。たぶん、一般の評価としては「読み込みすぎ」ということになるのだろう。

 しかし、それにしても読み終えて思うのは、キリスト教の「神」がそもそもいなかった(いない)日本人にとって、この本で論じられている諸々の事柄はどういう意味を持つのか、ということだ。この問題についての言及はほとんどないと言ってよい。この「神」がいなかった場合、われわれは果たしてここで論じられている「三つの空間」をどうやって移動するのだろうか? 「第一空間」は、何か別種の(しかしそれと同型な)ものと置き換えられるのだろうか? まさか、この移動のリンクのどこかに『甘えの構造』みたいな主張が入ってきてしまうのだろうか?

 この問題は、この本の導入部にある大江健三郎のエピソードと、ある種決定的な形で結びついているように思われる(p.20以降)。永井均は、朝日新聞に大江の「誇り、ユーモア、想像力」という文章が掲載されているのを見て「とても嫌な感じ」を受ける。

大江は、テレビの討論番組である若者が、「どうして人を殺してはいけないのか」と問いかけたことに対して、こう書いている。「私はむしろ、この質問に問題があるとおもう 。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとかとは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから」。大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。

 永井は、この大江の態度を不誠実なものと考える。そして、世俗的道徳自体に疑問を抱くことの正しさを主張した珍しい思想家として、ニーチェを高く評価する。さて、大江の言葉づかいとか、履歴であるとか、具体的な内容をとりあえず措いて、大江が若者の問いに対して朝日新聞上でこのような態度を取ること自体は、ニーチェの趣味のよさと同じものではないだろうか? (もちろん大江の場合は、「僧侶」になってしまったことはほぼ確実なのだけれども)

 この件は、まだよくわからない。

 というのも。ニーチェという人自体は、超人思想という趣味のよさが先にあって、それをどうやって理屈づけるかということをやった人のように思える。神が死んだから趣味がよくなったわけではない。自らの趣味のよさを説明しようとして、神が死んだと言ったような感じがする。さて、なぜ彼の趣味がよかったかという問いの答えは、結局のところ心理学的・精神分析的なものにならざるをえないだろうから不毛である。同じように、大江が若者に対して僧侶の役を引き受けることの「理由」を問うのも不毛だとしたら、どうなるだろうか。つまり結局のところ、大江に関しては面白い文芸評論ができない(それほどの豊穣さを大江が持っていない)がゆえに断罪しているのではないのか? みたいな疑問が湧いてくる。この問題はペンディング。

1998/7/17

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