ナショナル・ヒストリーを超えて

小森陽一、高橋哲哉編 / 東京大学出版会 / 98/05/27

★★★

少しだけいいものが入っているオムニバスのエッセイ集

 反「自由主義史観」の人々によるオムニバス形式のエッセイ集。『歴史と真実』ほどひどくはないが、やはり問題含みである。ちなみに「自由主義史観」の人たちがこの人々を「自虐派」と呼ぶのはある意味で間違いである。というのも、多くの人は「自虐」しているという意識はないように見えるから。どれだけ言い訳しようと、彼らの批判の中に自分自身は入っていない。ん? 「自虐派」という命名は、そこらへんのことも皮肉っているのだろうか?

 どうしようもない文章を書いている人のリスト: 小森陽一、紅野謙介、徐京植(ソ・キョンシク)、イ・ヨンスク、成田龍一、大越愛子、姜尚中、川本隆史、岩崎稔、高橋哲哉、ヨネヤマ・リサ、佐藤学。

 義江彰夫の「「自由主義史観」と歴史教育」は、現行の日本史教科書の記述を実際に見て、「自由主義史観」派のいうような偏向は起こっていないことを指摘し、さらに「自由主義史観」派の主張の内容を検討して、問題を指摘している。テキストに即した指摘なのでよいのだが、かえって、誰もが見ればわかることを延々と書いているという印象もある。あと、「自由主義史観」派の主張のサンプリングが偏っているのではないかという疑問もある。そんなものの公平なサンプリングなんかしたくないというのもわかるが。

 李孝徳の「「よりよい日本人」という形象を超えて」は、加藤典洋の『敗戦後論』を取り上げ、ここで言う「日本人」とはいったい誰なのかということを問う。だがしかし、私が思うに、少なくとも加藤典洋はこういうツッコミが可能であるということを知りつつも、あえて「日本人」を措定して、この概念を受け入れるよう突きつけているのだから、李孝徳のツッコミはボケになっているという感じがする。

 吉見俊哉の「雑誌メディアとナショナリズムの消費」は、90年代以降のナショナリズムのメディアでの現れ方を述べている。これは参考になった。

 鵜飼哲の「ルナンの忘却あるいは<ナショナル>と<ヒストリー>の間」は、19世紀に活躍したフランスの歴史家・文献学者、エルネスト・ルナンが、フランスの歴史を語る上で、都合の悪いことを忘れた、また忘れることを推奨したことを取り上げて、これをいまの時代に重ね合わせている。これはとても興味深いエッセイだった。だがしかし、ここで記されている論法は、実のところ、「自由主義史観」派の人々も使えるものだ。「ナショナル」という言葉の定義とかを措けば、彼らは自虐史観こそがルナン的であり、われわれはそこを乗り越えるのだ、と言いうるから。でもしかし「ナショナル」の定義が本質的に重要であることはたしかなので、問題は、いかにして代案を出すかというところにある。

 古田元夫の「戦争の記憶と歴史研究 ベトナム一九四五年飢饉の調査」は、ベトナム現代史を専門とする著者が、1945年、日本軍がベトナムに駐屯していた時期に発生した飢饉を調査した結果の報告である。非常にまっとうな人と見た。報告そのものもきわめて興味深い。

 長谷川博子の「儀礼としての性暴力 戦争期のレイプの意味について」は、タイトルどおりの内容。非常によく書かれていて、興味深い。だがしかし、著者の論が説得力を持てば持つほど、これが「従軍慰安婦」とどう関係してくるのかがわからなくなる。著者自身も、最初の方の話の振りとして「従軍慰安婦」に言及するだけだ。実際、この小論を読み終わって出てくる結論は、「従軍慰安婦は、ここに分類されているレイプや性暴力のケースではなかった」にならざるをえないように思える。これはしかし、この小論の骨組みがしっかりしているから出てくるアーティファクトなのかもしれない。この骨組みは「従軍慰安婦」を扱えるだけの広がりを持っていないということになりかねない。この著者は、逆の側からもこの問題にアプローチする必要があるだろう。すなわち、「平時のレイプでない性交渉について」だ。

 5つも面白い文章があればいいじゃないかという説もありうる。特に古田元夫と長谷川博子には注目する必要ありか。

1998/7/31

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