知政学のすすめ

科学技術文明の読みとき

米本昌平 / 中央公論社 / 98/07/25

★★★★★

骨太で重厚な論評

 1995年から1998年にかけて、『中央公論』などに掲載された論考をまとめたもの。扱っている範囲は、環境問題からバイオエシックスまでと幅広く、科学技術と社会の関わり方を科学史的にまとめながら、日本の現状を分析し、未来に向けての提言までも行うというきわめて重厚なものである。類書の中でも、この本は問題に切り込む視点のたしかさという点で最高水準にあると思う。これはこれらの問題を理解する上で不可欠の重要な本だと思った。たとえば地球温暖化の問題ひとつとってみても、『地球温暖化の政治学』などと比べると、記述の量はきわめて少ないのにもかかわらず、はるかに的確に事態を描写しているように思える。米本昌平という人は従来から何をやっているのかよくわからないという感じを受けていたが、この本のせいで、こういう立場にはたしかに意味があると強く思った。

 が、しかし、全体的に見て、著者の推進する立場は、「比較的リベラルに運営している学校で、教師会に対して、もっとルールを決めましょうよと詰め寄る生徒会会長」のようなものである。で、教師会は生徒会のことなどはなから眼中にない、と。いや実際、もろもろの問題に向ける著者の目は、他ではほとんど見たことがないほど的確なのだが、ある種の立場をこうやって突き詰めると、こういう形にならざるをえないんだろうなという感慨がある。その形とは、「政治的な正当性(legitimacy)、権威(authority)、能力(capability)」(208ページ)を持つ機関という概念に集約されるのだろう。ちなみに、第4章「政治的パワーとしてのグリーンピース」は、国際社会の中でグリーンピースがこれらの特性をいかにして持つようになったかということを論じていて、グリーンピース論として非常に興味深い。

 この形はたしかに不可避なものなのかもしれない。つまり、国家とは別に、こういう機関を打ちたてることが、グローバルな環境問題にしても、国内問題的なバイオエシックスにしても、さらには第3章で取り上げられているテレビ・メディアについても必要なのであるという立場である。逆に、そういう機関がないところが彼の苛立ちの原因となる。だがしかし、この問題意識の敷衍として、次のようなことが主張されると、本当にこれでいいのかという疑問が生じてくる。

 まず一つ目。日本での脳死法案と臓器移植関連の問題の推移を述べた箇所(第8章「ゲノム研究の展開と今後」)。ここの部分は非常に興味深かった。日本で脳死法案の成立が遅れ、また成立後も脳死を前提とした臓器移植が行われないのは、問題のアプローチを間違ったからだという。以下、198ページ終わりから。

……脳死問題についての一般認識は、その基本から間違っていたのだと。たとえば「欧米では脳死を人の死とする社会的合意があるが日本はまだない」とか、「日本では医療不信が強いからこれまで脳死・臓器移植ができなかった」とか、こういう言説そのものがたいへん疑わしいのである。
世界的にみると、脳死を人の死とする法律を制定したのは、八七年のスウェーデン、九〇年のデンマークなど少数で、ほとんどの国は、医療職能集団が策定した脳死判定の基準と、この条件が満たされたある種の状態を、医療関係者が人の死と扱うことを、そのまま国や社会が追認する形をとっている。(中略)
どこの国でも、世論調査をしてみると、脳死を人の死とすることに過半が賛成する一方で、無視できない割合で反対論が出る……。つまり、国民一人一人に正面から「脳死は人の死か」と問えば異論が出るのは必定なのだ。だから諸外国では、この問題が医療の専門性から派生したものであると同時に、人の死の概念に関わる問題でもあるため、過剰に社会に流出しないよう医療職能集団のイニシアチブで、医学外の専門家をも動員して調査報告を作成して社会的承認をとりつけてきた。この種の報告書作成の過程で、脳死を人の死とするための哲学的解釈を提示したり、脳死を人の死とした場合に必要な、検察当局や検視手続きとの実務的調整を図ってきた。

 そして日本では、この種のイニシアチブを取れるような医療職能集団が存在しない。歴史的に見ると、移植に対して反感を持っていた日本医師会会長の武見太郎の引退以降、その権限の多くが厚生省に移ったという事情があるとのこと。

 もともと日本はバイオエシックスの後進国であり、後発組であるがゆえに、先進国が行った試行錯誤の果実を享受できると言われていたことがあった。しかしその果実が、「職能集団がとりあえず既成事実を作ること」というものであったとすると、何かがおかしいと言わざるをえない。たしかに臓器移植法の成立までの過程はひどいものではあったが、それによって日本人が脳死と臓器移植という問題を強く意識したという効果はあった。優秀な職能集団がスムーズにこの移行を果たしていたら、(日本のメディアは相対的に愚かなので)このようなことは起こらなかっただろうと思われる。

 このような視線は、最初の方のオウム真理教とマス・メディアの問題を扱った章で、さらに問題含みとなる。ちなみに、この時事的な問題を扱った最初の3章は、読むのをやめようかと思ったぐらい問題含みで、著者がこのようなコンテンポラリーな問題をうまく扱えないでいることを示唆しているように思うのだが、読者はこれにめげずに先の方を読んでもらいたい。

 さて著者は、オウム真理教に医者や弁護士などの優秀な人間がかかわっていたことを、やはり上記のような職能集団がうまく機能していないことに帰結させようとする。だが当然のことながら、オウム真理教には医者でも弁護士でもない人々が多数関わっていたわけで、職能集団という視点からは問題の答えになっていないことは明らかである。というよりも、これを「医者や弁護士などの優秀な人間」という枠組みで捉えることそのものが、問題の矮小化である。

 第3章「テレビメディア批判と革命の予感」では、オウム事件関連でメディアから大々的な攻撃を受けた「友人」の島田裕巳を守ろうにも守れないという状況が描かれている。これはまあ、報道被害に対する有効な反撃が取れないというエピソードの一つに過ぎないのだが、ここで著者のスタンスの微妙さが浮き彫りになる。島田も米本も、メディアに対してコメントを提供する側である。特に島田についていえば、それまで利用してきたテレビ・メディアから手を噛まれたということであり、一読者としては同情する余地が少ないように思う。その意味では、米本のアカデミア批判についても納得いかない部分がある。三菱化成生命科学研究所の所員であるということの微妙な意味合いを、われわれが察知する義理はどこにもないのだから(まあ少しはわかりますが)、米本がアカデミアの外に立って批判していることの正当性が伝わりにくい。まあこれは厳しすぎる注文なのかもしれないが、私にしてみれば三菱化成生命化学研究所所員なんてのは、十分にあっち側なのだ。

 まあこのような問題はあるけれども、大局的な問題に関する観察者としての視線にはきわめて鋭いものがある本だった。

1998/8/30

TRCの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ