戦争と正義

エノラ・ゲイ展論争から

History Wars: The Enola Gay and Other Battles for the American Past

エドワード・T・リネンソール、トム・エンゲルハート / 朝日新聞社 / 98/08/25

★★★★

「修正主義者」たる歴史学者たちの論文集

 『拒絶された原爆展』の主題となっていたエノラ・ゲイを中心とする原爆展の(実質上の)中止を回顧して、「修正主義者」の立場にいる(要するに原爆展の中止を批判する)アメリカの歴史学者8人が書いた文章を集めたもの。『アメリカの中のヒロシマ』もたびたび(肯定的に)言及されている。

 文章を寄せている人々のリスト。邦訳された本を括弧に入れて示している。Paul Boyer、John W. Dower(『人種偏見』、『吉田茂とその時代』)、Tom Engelhardt、Richard H. Kohn、Edward T. Linenthal、Michael S. Sherry、Mike Wallace(ジャーナリストではなく、歴史学者)、Marilyn B. Young。

 この本は、ある意味で『ナショナル・ヒストリーを超えて』と同じような性格を持った本である。要するに反動的・保守的なムーブメントに対して異を唱え、それを批判する、どちらかといえば情緒的な文章の集まり。しかし両者の間の大きな違いは、日本では自由主義史観が修正主義である(として批判される)のに対し、アメリカではヒロシマに落とされた原子力爆弾の倫理を問うことが修正主義である(として批判される)ことである。この違いはきわめて面白いが、ここにもう一つひねりが加わる。この本でも何度も述べられていることだが、アメリカ人は日本において「自由主義史観が修正主義である」などとはちっとも思っていない。アメリカ人は、日本が、太平洋戦争が終わってからこのかた、ずっと自由主義史観的な態度をとってきたと思っているのだ。冷静に考えればそう思うのもとうぜんだが、アメリカ人のこっちの方の陣営に属している知日派と思われる学者たちもこういう理解をしているということを改めてつきつけられて、いくらかショックを受けたことは否定できない。

 上で述べたように、この本はどちらかといえば情緒的な文章の集まりなのだが、次の2つの点で興味深い。まず、そのような情緒的な文章も、うまく書けば説得力あるものになるんだということ。実際、日本の反自由主義史観の陣営に、こういう優れた文章はめったに見られない。もう一つは、アメリカにおけるこの分野での歴史と現状の(この陣営がそう思っているところの)概略が掴めることである。

 さて、前々から論理的には理解していたことではあるけれども、この本を読んで改めて確信したこと。それは、日本人が、大東亜戦争における大日本帝国の振る舞いと、戦争の終わりをマークしたアメリカによる核兵器の投下の関係をうまく統合するような歴史観を持てずにいるということだ。これは自由主義史観派と反自由主義史観派の両方に共通することで、重要なことから目をそらしているということは同じである。というよりも、広島長崎のタブーが大きすぎて、どちらも踏み込めずにいるのだろうと思われる。1960年代頃からアメリカで進んだ原爆投下前後の動きに関する研究で、いろいろなことが判明した。原爆投下の決定が、いくぶん不純(!?)と思われる政治的動機にドライブされており、軍関係者の中には反対の声もあったということ。おそらく原爆を投下しなくても日本は降伏しただろうということ(特に長崎への投下は不要だった可能性が高い)。しかし、そういうことをすべて踏まえても、広島と長崎に投下された爆弾は、大日本帝国に決定的な終焉をもたらしたのであり、そのときに広島と長崎にいた人たちはひどい災難だったけれども、当時の多くの、また後世のほぼすべての日本人にとっては幸いだった。しかも、これのせいで戦後の日本人は、自分たちが戦争の被害者であるというような錯覚を抱くことが可能になったし、場合によってはこれをもとに反米の立場を取ることも可能になった(これが幸いであるかどうかはわからないが)。こういう流れを踏まえると、自由主義史観派は論理的には反米の立場を取り、アメリカによる原爆投下を暴虐行為として非難しなければならず、反自由主義史観派は論理的には親米の立場を取り、原爆投下を(もちろんいろいろと留保を付ける必要はあるだろうか)感謝しなければならないはずだ。しかし現状はそうなっていない。

 上記のような「論理的」な帰結は、細かいニュアンスを無視した大雑把な議論であるという批判があるだろう。とうぜんそうである。しかし問題は、これが「論理的」であるということであり、日本ローカルな事情を知らない外国人から見ると、その「論理的」帰結がとうぜんのことであるように見えることなのだ。そういうわけで、戦後日本の反米的な原爆批判運動は、特にアメリカ人から見ると自由主義史観派の運動にしか見えないことになる。私が思うに、日本の原爆批判運動を行っている人たちは、この誤解を早急に解く必要がある。

 この点で論理的な筋を通すことは、自由主義史観側にも必要である。私がその側に立っていたら、悪魔のテクノロジーを使って東洋の弱小国の住民を一挙に虐殺したアメリカを徹底的に批判し、そのような悪魔のテクノロジーに荷担することを拒否して、核武装絶対反対と核兵器の地上からの廃絶を主張するだろう。だって筋を通す絶好のチャンスなんだから。で、そうでないところに、国民の誇りみたいなことを言う人々のオポチュニストぶりが透けて見えるわけだ。

 もちろん別のアプローチもある。戦後の日本人が、この問題について考える能力をなくしているということを、徹底的にアピールすることである。アメリカはスミソニアン論争によってそのことを世界に示した。だから、日本でも何かこれに似たエピソードを作って、それを世界的に宣伝すればよい。別に心配はいらない。核について考える能力を持たないから、核を持たない、というのはきわめて納得できることだから。逆に、核を所有するアメリカが核について考える能力をなくしていることは、世界にとっての不安材料となるわけだが。

1998/9/3

 最後から2つめのパラグラフの驚くべき例外については、『戦争論』を参照。

1998/9/17

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