日本語の外へ

片岡義男 / 筑摩書房 / 97/05/25

★★★

力作ではあることは認めるが

 書き下ろしの日本文化論。アメリカ通の人が年をとって文藝春秋にのるようなナショナリズム的思考を文章にしようと思った、という感じ。自分が作家であるということを強く意識していて、評論家たちがうんざりするほど書いてきた事柄を自らの言葉で書き記しておこうという決断をして、書いた。実際、この本は力作である。とても力がこもっている。

 この本の導入部は、「日本にいながらアメリカのテレビ番組を見るということ」という問題を扱っている。著者がアメリカのテレビ番組を見て思ったことの多くは共感できる。歴史的事象の解釈のしかたはともかくとして、アメリカのテレビ番組を日本人が見ることが大きな問題であるということにはまったく賛成だ。

 ところでこの本のタイトルである『日本語の外へ』は、アメリカのテレビ番組に日本人が出演したときの英語の曖昧さという問題に由来している。「世界とは母国語の外のこと」と題された章の「薄い皮だけがかろうじて英語」という節(324ページ)に、ABCのThis Weekで日米貿易が取り上げられたときに登場した日本人男性の話がある。著者はこの日本人の喋る英語を聞きながら、次のように思う。「彼の英語の向こうに確実に見えたと僕が思う、ひょっとして日本の人たちの多くに共通しているかもしれないはずの、言葉というものに対する自覚や認識あるいは理解のありかたの偏りについて、僕なりに指摘してみたいだけだ」。

 この問題意識から、著者は(かなり陳腐な)日本人論へと進んでいく。その部分はちょっとばかりうんざりするし、痛々しいのだけれども、とりあえずアメリカのテレビ番組に日本人が出てきたときの異様さに問題が潜んでいるということにはまったく賛成だ。これは特に東南アジアの人々と比べたときにはっきりするのだが、そこには「日本人は英語が下手だ」という言い方では収まりのつかない、何かしら根本的な問題が潜んでいるように思われる。さて、著者はこの後300ページぐらいを費やして、この問題を解明しようとするのだけど、驚くべきことに、この解明の記述の仕方が、アメリカのテレビ番組に出た日本人とまったく同じ問題を抱えているように感じられるのだ。著者は、『日本語の外へ』と題された書物の中で、日本語の外に出た様子を見せない。日本語で書かれている以上あたりまえの運命だろうか? 片岡義男という作家は、自分で思っている以上に日本的なのだろうか。

 この本は力作だけど、力がこもればこもるほど、自らの限界が露呈するという一種悲劇的な本なのだ。これはひとごとではない。私自身、英語で書くこと/しゃべることが苦手であり、そりゃアメリカのテレビ番組に出たら、他の日本人と同じように奇怪な言動をすることになるだろう。英語で書くとき/しゃべるときに、何か重要なものが抜け落ちるという感覚が強くあって、それが言葉を巧みに操る能力の欠如に由来するものなのか、何か本質的なものなのかがどうにもわからない。

 もちろん、この疑問に対する比較的単純な答えはあって、テレビ番組で、特にニュース番組で語られている英語はコミュニケーション・ツールであり武器なのであるから、イラクの副総理とか国連事務総長だとかがしゃべる英語が明晰なのは、彼らがコミュニケーション・ツール、武器として明確な意図を持っているからであり、明確な意図がなければそういう英語はしゃべれないのだ。逆に、明確な意図があれば、「アメリカのテレビ番組に出てくるような英語に似た」日本語をしゃべることは可能である。その一つの例で、一番印象に強く残ったのが、もう10年近くも前になるけれども、とある外資系コンピュータ会社の社長の、ビデオによる社員向けの挨拶であった。カメラに向かう姿勢、セリフの言い回し、言葉遣いなどを含めて、そこで語られているのは純粋な日本語であるのに、それはどこから見ても英語だった。別に言葉のはしはしに「オーケー」だとか「アイ・シー」だとかの間投詞を入れてしゃべれば英語に近くなるというわけじゃない。

 片岡義男がこの本で言っている英語は、つまり国際語としての機能を果たす英語は、プレゼンテーションの問題なのだ。英語は論理的であるとか、日本語には主語がないとか、別にそういう論理に頼る必要はない。そして、この『日本語の外へ』は、特に後半の部分は、プレゼンテーションがもう純粋に「日本語」なのである。

1998/3/31

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