新ゴーマニズム宣言スペシャル

戦争論

小林よしのり / 幻冬社 / 98/07/10

悲劇的

 『戦争と正義』のレビューの最後の方に私は次のように書いた。

この点で論理的な筋を通すことは、自由主義史観側にも必要である。私がその側に立っていたら、悪魔のテクノロジーを使って東洋の弱小国の住民を一挙に虐殺したアメリカを徹底的に批判し、そのような悪魔のテクノロジーに荷担することを拒否して、核武装絶対反対と核兵器の地上からの廃絶を主張するだろう。だって筋を通す絶好のチャンスなんだから。で、そうでないところに、国民の誇りみたいなことを言う人々のオポチュニストぶりが透けて見えるわけだ。

 大間違いだった。この『戦争論』において、小林よしのりはアメリカによる原爆投下を、人種差別のニュアンスを含んだ「悪魔の仕業」として非難し(338ページ)、アメリカと中国は「核を捨ててから」日本の戦争責任を追及するべきだと言う(338ページ)。そして核が抑止力として働いたことは認めつつも、核を批判する。しかしその理由はなんと、「人類の不条理として常に何かを産み出してきた「人間の戦争」の可能性すら奪った罪は大きい」ということなのだ(339ページ)。つまり通常兵器による戦争ができないような状況を作ったという点で、核はよくないという。核を使わない通常兵器による戦争はいくらでも起こっているじゃないかという反論があると思うが、これは小林よしのりの物の考え方に沿って理解すれば問題は生じない。要するに、彼は、日本は中国とアメリカには戦争を仕掛けられなくなった(核による報復を怖れざるをえないから)と言いたいのだ。そしてそのことが、戦後日本の軟弱な体質を産み出してきた原因の1つである、と言いたいのだ、と思う(まあ339ページの最後の方では、この論法が全世界に通用するといわんばかりの書き方をしているけれども、ここらへんは単純ミスというか無知ということで許してあげてください)。

 こんな奇怪な論法がありうるということを想像もしなかった私はやはり甘かった。まあしかし、ことがこれほど奇怪になった理由はあるていど想像がつく。小林よしのりでさえも、核のタブーに囚われており、核抑止力の有効性を認める、ということと、核兵器を非難するということを同時に行うという離れ技を演じなければならなかった、ということなのだろう。

 著者がさまざまな問題意識をうまく調整できないでいる徴候は他にもいくつか見られる。たとえば第6章から第7章にかけて、少年の頃の小林氏が相撲大会で戦って負けることによって「個」を守るということと、特攻精神の「公」ということをどう関連付けるのか。この個と公の問題は、ここだけでなくいろんなところで出てくるけれども、最後までうまく折り合いがついていないように思われる。というよりも結局のところ、第6章と第7章の「個」は領域を拡大し、「公」は領域を縮小して、ちょうど「コミュニティ」あたりで一致してしまうように見えるのだ。だから「個」と「公」という二分法そのものが崩壊するのである、という話にいくのかと思ったら、著者はこの二分法を自ら崩壊させたことに気づかずに先に進んでしまう。

 あるいは第10章。著者は大陸の日本軍兵士たちが、便衣兵と戦うという困難に見舞われたことを指摘し、日本兵が一般市民を殺害したのは不可抗力だったと言う。「兵が同胞の一般市民の服をはぎ取って化ける! なんという卑劣さ…!」とつぶやく(129ページ)。ところが第19章で、アメリカが行った日本に対する戦略爆撃を非難し、「そしてアメリカ人たちは戦闘員でないことが歴然としている一般庶民を虐殺するためにこう言って自分たちを納得させた」といい、アメリカの軍人に「日本の軍需工場は社長でさえ知らない家内工場が無数にあるのだから要するに民家を含めて都市全部が軍需工場なのだ」、「女・子供老人もすべて戦闘員なのである」というようなセリフを言わせている。ふつうどっちかの論拠を変えないか? まあ、弁護せよといわれたら弁護可能だけどさ。

 でも、これらの問題は、小林よしのりにとってはそれほどの問題にはならない。彼にとっての真のテストは、第15章「痛快な戦争体験」である。この章では、陸軍将校として戦闘に従事した高村武人という人の経験が描かれる。小林氏は次のように言う。「ほぼ勝ちっぱなしで帰国した高村氏の日記から戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動を学ぼうではないか!」(210ページ)。そして延々と60ページほどにわたって戦争マンガが続くのだ。実のところ、この章はこの本の22章(最終章を含む)の中で一番長い章で(64ページ)、10ページにも満たない章がいくつもあるということを考えると、破格の扱いを受けているといっていいだろう。これはこの『戦争論』のメイン・ディッシュなのである。

 さて、小林よしのりにとってのテストは、この戦争マンガが「戦争の爽快感、戦争の充実感、戦争の感動」を伝えるものになっているのかどうか、ということである。でまあ、なっていないわけだ。この人、マンガ下手だし。おそらくジャック・ヒギンズとかアリステア・マクリーンのレベルの古典はもちろん、新しめの軍事小説も読んでいないし。

 悲劇である。

1998/9/17

 201ページで、『敗戦後論』に触れて、「昨年リベラルな人たちに評価されていた」というふうに言及し、「祖父たちは侵略したから汚れている」という議論を取り上げてこれを批判している。

 137ページで、ジョン・ラーベの『南京の真実』に触れて、記述が怪しいという指摘をしている。

1998/9/18

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