ひとりで歩く女

She Walks Alone

ヘレン・マクロイ / 創元社 / 98/09/25

★★★

やはり古すぎて読むのがつらい

 1948年に書かれた探偵小説。こういうのをいまだに読んでいる人もいるとは聞くけれども、やはりつらいんじゃないでしょうか。

 以下、小説のトリックに関連する記述があるので、この本を読んでおらず、読む予定がある方は、ここでやめるようにしてください。別ファイルにしてリンクを置こうかと思ったが、まあいいか、と。

 この小説の1つの主眼は、小説内に、小説の書き手以外の人物が書いた文章が挿入されている、という仕組みにある。その挿入された文章がとても長いので、読者はこれを地の文のように読んでしまう。この効果をいかにトリックとして使うか、という点に、この本の価値があるといって過言ではないと思うが、残念なことに、この本は意図していたであろう意外性を作り出すことに失敗した。ふつう、こういうトリックを使ったらこういうふうになるだろうな、と思うまさにその通りに事態が進展するのである。

 かつて、日本製の新本格推理と呼ばれているタイプの小説で、本の冒頭に犯罪現場の地図が描かれており、その図を見ただけで、本を読む前から、起こる事件の性質とそのトリックまでがわかってしまうものがいくつかあったことを思い出す。

 1948年に書かれたこの本に文句を言うのはきついとは思うが、それでは駄目なのである。ではどうすればよいか。飽く迄も読者の裏をかくということに徹するのならば、そこにはミスリーディングな図を置いておかなくてはならない。つまりこの本についていえば、この仕組みから予想されるのとは違うストーリーにしなければならない。残念なことに、いま私にはそのような条件を満たす適切なストーリーを思いつくことができないが。

 解説では、わざわざ活字を上下逆にして、この本のトリックの含んでいる矛盾が指摘されている。これはまことに正しい指摘なのだが、それ以前に、船の中で、夜を徹して、筆者がこのような長大な手記を書くということじたいの不自然さをなんとかすべきである。その内容の不自然さ(まさにそれが小説のようであるということ)も含めて。このことは、つい最近読んだ『事件、わたしの場合』を思い起こさせる。あの本は、その全体が、小説の主人公である女性の手記の形をとっていた。女性がその手記を書く理由は明示されており、彼女が置かれた状況と、その手記を書かなければならない理由から、その手記の信憑性に疑念が生じるが、読者はその正当性をテストする他の基準を与えられない。そのような曖昧な事態が、人間の主観と客観的描写のそもそもの本質を表現する、というメタな構造になっていた。この『ひとりで歩く女』にも、それに少しだけ近づく部分があるけれども、本格推理小説という枠組みに引き寄せられて、全体としてその印象は薄い。

 この本は推理小説というお約束の中で、あえて不自然に見えかねない設定と文章を挿入しているのだから、それは許すべきだと主張することは可能だろうが、そうであればなおさら、前述のトリックは、普通に考えつかないものであるべきだった、と反論できるだろう。もちろんこの本は1948年に書かれたものなので、こういった批判はすべて酷であり、アナクロニズムでもある(と思う。本当にそうかどうかは、このトリックを使った作品の年代順のリストを作らないとわからないだろうが)。

 もう1つ。やはり最近読んだ『記憶の闇の底から』には、虐待を受けたと主張する女性が子供のころに書いていた日記を証拠として解釈する、という要素がある。この場合、この日記はまったく悪意なしに書かれたものであるが、解釈が間違っていた。『記憶の闇の底から』の場合は、その解釈が間違いであるということがその前からわかっているのでどうしようもないのだが。

 こういった諸々のことを考え合わせて、有効な仕掛けを一つ考えてみよう。問題は、文章内の手記を誰が解釈するかということである。探偵は手記を解釈するが、その解釈が正しいかどうかわからない。あるいは、読者には探偵の解釈が間違っていることがわかるのだが、探偵はそれに気づかないか、いくつかの解釈を堂々巡りする。最終的に、事件は、手記の解釈とは独立に解決される。あるいは、間違った解釈をもとに行った捜査によって解決されてしまう。ん〜、コリン・デクスターと「フロスト」シリーズの組み合わせのようになってしまうだろうか?

1998/10/25

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