オウムはなぜ暴走したか

内側からみた光と闇の2200日

早坂武禮 / ぶんか社 / 98/10/30

★★★★

非常に興味深い

 著者のプロファイルを引用。

早坂武禮(はやさか・たけのり ペンネーム)
1963年静岡県に生まれる。業界紙記者を経てフリーライターとして活動。1989年6月にオウム真理教に入信し、2年後の1991年3月に出家を果たす。翌年4月から「師」と呼ばれる中堅幹部として活動し、「広報局長」「自治省次官」などを務める。1995年3月の大騒動を機に、同年6月、脱会。

 このプロファイルからわかるように、この人は入信の時期がかなり遅く、麻原彰晃の側近になるまでには至らなかったが、メディアでの経験をかわれ、また非常に真面目に「修行」したせいもあってか、そこそこのところまで出世した中堅である。オウム真理教が手を染めていた犯罪行為には関わっておらず、また1994年の後半からロシアに派遣されていたこともあって、犯罪容疑はまったくかけられていない。林郁夫の『オウムと私』の記述から推測するに、もしかしたらこの人は次期幹部の候補として、麻原彰晃の手で安全な地に逃されたグループに属するのかもしれない。ただし、この人は現在ではオウム真理教との接触は絶っているとのこと。

 林郁夫の手記は、基本的に、死刑を無期懲役に減刑してもらうための弁明を記したものであったが(あの手記そのものが裁判に影響を与えたわけではないが)、この本の著者はそのような弁明をする必要がない。したがって、著者の態度は基本的にオウム真理教という組織とかかわっていたことをどのように正当化すべきか、という問題を軸としている。であるからこそ、というべきか、グルへの根本的な信頼はいまだに失われていないように見える。

 私にとっては、この著者のようなタイプの人がオウムでの活動で何を感じていたか、ということが一番重要である。だからこの本は非常に興味深く読めた。

 以前から周囲に対して主張していたが、真面目に受け取られていなかった仮説を裏書きする描写があった。オウム真理教の信者たちが、緊張が高まっていた時期に、メディアと警察の猛烈な攻撃を受けて、かえって自分たちの正当性を確信した、ということである。特にメディアでの、誤報を含むフェアでない報道が、信者たちをかえって頑にさせたことの問題は大きいと思う。『笑われる日本人』を思い出させる話だ。実際、オウムと日本の関係は、日本と外国の関係と同型である。

 もう1つ重要なことをついでにここで書いておこう。この人はもともと宗教嫌いであったが、自ら神秘的な体験(夢や幻覚など)をしたことでオウム真理教に興味を抱き、修行の過程でそのような体験を繰り返してしたために決定的に入信した。たぶん、自らを合理主義者とみなす(しかし本人が思っているほどそうではない)人が、この種のカルトに入る典型的なパターンだと思う。このことの責任は、オカルト的主張をする側にもあるけれども、(ほとんどの)反オカルト陣営にも等しくあるのである。特に「擬似科学批判」などを行っている人々の多くは同罪である。

 この人のもともとの体験は体脱体験(Out-of-body Experience;OBE)を含む幻覚や神秘的な夢であり、修行の過程では入眠時幻覚に近い、人為的に作り出された意識の変性状態(Altered States of Consciousness)体験をしている。これらの事柄は必ずしも超常的なことではないが、超常的に起こることも論理的にはありうるということを認めないと、いったんそういう体験をしてしまった人は一気に神秘主義の側にいってしまう。現状のオカルト批判の普通の論理の流れは、超常的なことは論理的にはありえない、と述べるものである。これは当然ながら真っ赤な嘘であり、しかもよかれと思って吐かれている嘘なのだが、結果として、この本の著者のような人をオカルト陣営に押しやるのに貢献しているということを認識すべきだ。取るべき道は、超常的現象の徹底的な世俗化(脱宗教・脱神秘化)である。

 著者に対しては次のように助言したい。著者が入信前または修業中にした体験は、この本に書かれている内容を見る限り、完全にノーマル(正常)である。ご存じだろうが、実験室内で再現できるものである。そして、このような体験は、たとえばクリエイティビティの促進に貢献する「かも」しれないが、それが何らかの宗教的観念とリンクしているという保証はどこにもない。また、麻原彰晃のESPを思わせるエピソードは、超常的(ノーマルでない)かもしれないが、科学的/論理的にありうる。オカルト側だけでなく反オカルト/擬似科学批判者までもが同じ立場に立っているから錯覚するかもしれないが、それは十分に科学で扱える現象である(少し制約はつくけど)。そして、この種の現象/能力が何らかの宗教的観念とリンクしているという保証はどこにもない。100メートルを10秒以内で走れる人が宗教的に偉大である保証がないのと同じことである。

 「マハームドラー」という、弟子を導くために無理難題を試練として与えるという心理学的な手法も、世俗的なコンテキストで十分に理論化されているということも指摘しておかなくてはならない。実際、この手法がきわめて強力だということが、いまだに著者が、オウムが手を染めた一連の非合理的な犯罪も「マハームドラー」の一環だったのではないかと考えている(ように見える)ことからわかる。

 しかし、仮にいくつかの犯罪行為が麻原の弟子に対する(本物の)「マハームドラー」だったとしよう。そうだとすると、これらの犯罪行為を「ヴァジラヤーナ」として正当化するのはかなり無理になる。私は不可知論者なので信じはしないけど、「ヴァジラヤーナ」の論理はありうるものとして納得できる。しかし、それが「マハームドラー」と組み合わせて実行しうるものだとは納得できない。著者もそう思っていると思うが、麻原彰晃が直接手を下さないと「ヴァジラヤーナ」の実効はないのだ。一方、あれらが「ヴァジラヤーナ」なしの「マハームドラー」であるとしたら、オウム真理教は世間から弾圧されても仕方がない。

 本当のところがどうだったのかは永遠にわからないと思う。狂っていてもグルはグルであるし、最終覚醒者が普通の精神状態のおじさんだったらかえっておかしいだろう。麻原彰晃が今後何をいうかは、この宗派の行く末にはほとんど影響を与えないと思う。たとえいま「狂人である」という報道がなされても、50年も経てばみんな忘れる。オウム真理教が将来キリスト教のような立場に立てるかどうかは、今後数十年、信者たちが持ちこたえられるかによる。

1998/10/27

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