なぜ人を殺してはいけないのか?

永井均、小泉義之 / 河出書房新社 / 98/10/23

★★

奇怪としかいいようがない本

 第1章が『文藝』の98年夏季号に掲載された永井均と小泉義之の対談。そして、第2章と第3章は、その後に両名が対談のトピックについて書いたエッセイという非常に興味深い構成の本である。これは非常に面白く、有益な構成かつ企画だと思う。しかし中身を読んで出てきた感想は、この対談を読まされた『文藝』の読者が気の毒だ、というものである。実際、著者らが自ら示唆していることだが、この対談はまったく噛み合っていない。両人とも言葉を発しているのだが、すべての言葉が無意味であるといっても過言ではないような対談なのだ。

 トピックは、タイトルのとおり、「なぜ人を殺してはいけないのか?」である。この問題については、永井均が『これがニーチェだ』で触れている。簡単に述べると、ある視聴者参加型のテレビ番組で、大人たちが討論していたところ、ある高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問というか言葉を発した。これを大江健三郎が朝日新聞のエッセイで取り上げて、そのような質問をすること自体がだめだと書いた。永井はこのような立場を批判する立場にたった。そういう意味では、この本は永井本人がどのような答えを返しうるのかを試す試金石ともいえる。

 しかし、まず第3章を書いている小泉義之の方を取り上げよう。この人のことを私はよく知らないが、完全に常軌を逸しているとしか思えなかった。何を書いているのか、まったく理解できない。漠然とわかるのは、何かしらバックグラウンドがあって、それに基づく信仰告白をしているのだ、ということぐらいだ。永井は第2章のなかで、小泉の宗教性のことを何度か示唆し、対談の中でも彼の発する言葉が理解できなかったと繰り返している。しかし、これを対談が終わったあとで書くのはちょっと問題があるんじゃないかと思う。そもそも、『文藝』を読んだ人がかわいそうだ。永井が小泉の言葉を理解していない、ということを知らされないまま、あたかも会話が成立しているかのように進む対談を読まされたわけだから。永井が小泉にもっと突っ込めばまだましだったのかもしれないが、永井の側にはそんなことをやる興味もないだろう。私にもない。

 さて、第2章を書いている永井の側だが、それよりもまず、10ページの小泉の興味深い発言を引用しておく。これは、援助交際に関して、永井が基本的に「援助交際が悪い」という観念そのものが悪いという立場をとったことに対するコメントである。

現在、一見永井さんのような形で援助交際を肯定する言説があるんですが、その言説が、援助交際を肯定することをもって何か別の効果を発揮しているとか、別のことを狙っているように見える場合があるわけです。それは言ってみれば、まさに言説の市場効果の問題で、その点が気になるというのが一つ。

 これに対して永井は次のように答える。

言説の市場効果の問題についてはぼくは考えていないし、そういうことは考えない主義なので、何とも言えません。

 この「言説の市場効果」の定義はどこにも述べられておらず、他に言及はないのだが、その割には、この対談はほとんどすべて、特に永井の側に顕著なのだが、まさに「言説の市場効果」の測定と評価について語っているように見えるのだ。私がこの言葉の意味を取り違えているのかもしれないが、これが「言説の市場効果」でないとしたら、他にそのようなものを想像することができないぐらい、この語感にぴったりなのである。まあ別にそれだから悪いというわけではないのだが、「言説の市場効果」を考えないと言いながら、それについて論じるという態度をとるという逆説的なメディアへの現れ方をするという選択をしていること(このあり方は、第2章で論じている、若者への語り方に関する態度に通底している)は、なんとなくかっこ悪い。

 さて、本題の「なぜ人を殺してはいけないのか?」について、永井は第2章で、いくぶん間=主観性みたいなものを思い起こさせる〈私〉論を使って説明を行っている。これを読んで私が思ったのは、オリジナルの発言をした高校生がこういうことを言われたら、俺を馬鹿にするんじゃないと怒りだすんじゃないかということだった。その高校生の発言のコンテキストをまったく知らないので確かなことはいえないが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という言葉が出たとき、その言葉の裏にあるのが、認識論が陥りがちな独我論と「他人」とのギャップをどう埋めるかという問題に関するテクニカルな答えが知りたいという欲求でなかったことは、これ、火を見るより明らかだと思う。それでもなおこういう答えを返されたら、本人は、大江の発言以上に強圧的だと感じるのではないだろうか。『これがニーチェだ』で、永井は、大江が若者に問いを立てることを禁じたとして批判していたけれども、このような答えもそれほど変わらない。もともと永井の主張は、こういうものだからだ。「君が、なぜ人を殺してはいけないのかという問いを発した裏にある事情は推測がつくが、それを考えるのはやめて、こちらを考えなさい」。

 まあしかし、テクニカルな答えの押しつけとしても、これはあまり上等ではないと思う。この本ではこの話題に接近することはあっても明示的に語られていることはない(と思う)が、ひとが「殺人」という行為を特別視するのは、まさに永井のいう〈私〉を抹殺する行為であるということをみんなが知っているからである。そして、高校生が「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問うとき、そこにはたぶん、このことと、この〈私〉の唯一性との間の緊張関係があって、この〈私〉の唯一性の方が正当であるような状況があるのに、なぜあなたがたはそれを無視できるように振る舞っているのですか、という問いかけがあるのだと思う。まあくだんの高校生がこういうことを言語化していたかどうかは知らないが、たぶん漠然とこういうことを思っていたに違いない。この方向でないにしても、そこに緊張関係があり、それを、討論していた出演者たちが(おそらく)完全に無視していたことに苛立ったのが、この発言の動機だろう。つまり、緊張関係があること自体よりも、そこで緊張関係が無視されていたことが、発言者の疑問なんだと思う。

 ちなみに、私がそういう問いを投げかけられたらどう答えるかを考えてみた。たぶん次のようなシナリオになるだろう。人を殺すということが、永井がいうような〈私〉の世界を消滅させることである、ということを人は直観的に知っている、ということがまず前提となる。その上で、「人を殺したら、その関係者たちがあなたを殺しに来るんだよ」と言うだろう。なぜ殺しに来るかというと、他人の世界を消滅させた人には、その報復として、その人の世界を消滅させてもよい、というような諒解があるからだ。もう一つ、「あなたが殺人者であるということが周囲の人に知られたら、村八分になるよ」と言うだろう。もちろんその殺人行為が支持されるようなコミュニティに住んでおり、そのコミュニティの中で殺人行為が繰り返されないという安心感が流通しているのであれば話は別である。

1998/10/29

TRCの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ