ケンブリッジ・クインテット

The Cambridge Quintet

ジョン・L・キャスティ / 新潮社 / 98/09/30

★★★

趣旨は面白いのだが、内容が

 1949年、ケンブリッジにC・P・スノウ、ヴィトゲンシュタイン、ホールデイン、シュレディンガー、チューリングの5人が集まって、人工知能の可能性について議論をする、という小説。この会合が現実にあったわけではないが、この5人が集まったらこういう話をするだろうというシミュレーションを行っている。

 基本的にチューリングとヴィトゲンシュタインが、それぞれ人工知能の可能性に賛成/反対の立場をとってやりあい、他の3人がそれに適宜口を挟むという形になっている。実際には他の3人はほとんど不要で、チューリングとヴィトゲンシュタインが2人でやりあったという小説にしても同じようなことになりそうだ。比較するのは(こちらの方に)酷ではあるが、『哲学の最前線』と同じく、奇を衒って失敗したという感じがする。しかしこちらの方は舞台が1949年に設定されているだけに、この問題に突っ込めるそのやり方が著しく限定されるというハンディがある。

 私はヴィトゲンシュタインの主張に詳しくないが、この本でのヴィトゲンシュタインの態度は頑なにすぎるというような気がする。もちろん1949年という時代の制約をこの本のヴィトゲンシュタインは負っているという設定なんだと解釈することも可能なのだが。一方、チューリング・テストによって知性が判定できるという考え方があまり上出来なものではないので、これに反論するヴィトゲンシュタインの立場が頑なに見えるのは、この欠陥に由来していると考えることもできるだろう。その意味では、現在から1949年を振り返って、その間にこの問題に対するわれわれのアプローチがいかに変わったかを検討するというのが面白いかもしれないのだが、残念なことにこの本に書かれている内容が、そのまま1949年のこれらの人々が本当に取っていた、あるいは取りえた立場なのかどうかはよくわからない。

 基本的にチューリングはチューリング・テストの概念に見られるような、知性の行動主義的な解釈を提示し、機械を使ってそれを真似ることは論理的に可能だと言う。これに対しヴィトゲンシュタインは、いわゆる後期ヴィトゲンシュタインの立場に立って「とんでもない!」という感じで反論する。ところで他の3人は、ヴィトゲンシュタインが何を言おうとしているのかを最後までよく理解できないでいるという感じである。そりゃそうだろう。チューリング・テストというものは、生物学者にも物理学者にも比較的受け入れやすい概念であるのに対し、ヴィトゲンシュタインの主張は形而上学だからだ。その点で、この本は配役も間違えているのかもしれない。

 以下、感想。基本的に、チューリングが述べるような(そして現在のわれわれが考えるような)「遠い未来に論理的に実現可能であろうと思われる人工知能」に関して、ヴィトゲンシュタインは分が悪い。なぜならば、ヴィトゲンシュタインが知性の、したがって言語の習得のための要件と見なすものを人工物で真似ることは可能である、と考える方が「科学的」だからだ。ある人工知能ができたとして、これがヴィトゲンシュタインの提示する要件を満たしていないと判定された場合、その未知の差分を見つけ出すことが科学の営為であるという風に認識される。たとえば、この本でチューリングはチューリング・テストからそれほど先に進まないのだが、ヴィトゲンシュタインが社会的相互作用を通しての学習が要件だと言った場合、われわれは、社会的相互作用を通しての学習ができるような人工知能を容易に想像できる。感覚の仕組みの発生学的な発達の特定のあり方が要件だと言った場合、そのような発達をする人工物を想像することもできる。もちろん、そのようなものはいまだ作られていないので、そういうものを作ったときにそれが本当に知能を持っているように振る舞うかどうかはわからないわけだが、とにかくヴィトゲンシュタインが何か想像しうるものを言ったとたんに、それは科学の側に回収されてしまうのだ。まさに言語の罠である、と言うべきだろうか。

 個人的には、この本のヴィトゲンシュタイン流の立場と人工知能は全然矛盾しないように思う。というよりもたぶんこう言うしかないのではないだろうか。機械が言語ゲームを始めたときに、その機械は(ヴィトゲンシュタインの立場からしても)知性を持つと言わざるをえなくなる。そして特定の機械(あるいは人間でさえも)が言語ゲームをしているかどうかは、チューリング・テスト的なやり方でしか判定できない。ところでチューリング・テストの含意の1つに、知性というものは統計的な概念である、というものがある。いまわれわれは、人間に十分に近い機械が存在しないことを「知っている」ので、機械であるか人間であるかの二者択一の判定を思い浮かべるが、ひとたび、人間にある程度近い機械が登場した場合、それよりも「人間度」が低い人間というのが出てくるはずである(このテストが実用的に運用されるようになったら、「N%以上の人間が、M分以上会話をして、人間であると思った」と「N2%以下の人間が、人間でないと思った」みたいな統計的基準が適用されるようになるはずだ)。こうなったときには、たぶん「人間とは何か」を区別する基準として、言語とか知性よりももっと内側にある何かが採用されるようになるに違いない。

1998/11/1

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