ラップという現象

Signifying Rappers: rap and race in the urban present

マーク・コステロ、デイヴィッド・フォスター・ウォー / 白水社 / 98/06/20

★★★

少し古いが参考になる

 1990年に書かれた本(邦訳が出たのは1998年)。著者は法律家と作家。若い教養ある白人が80年代後半までのヒップホップに関するポップな批評を書いた、というもの。監修者による文章が途中に挿入されている。

 この「教養ある」というところが曲者で、あまり信用のおけるタイプの批評ではなくなっている(要するにモダーンな高踏的クリティックとでもいうか)。しかし、著者2人が、このヒップホップという動きに熱中している白人であるという点は、われわれ日本人にとっては非常に重要である。

 日本におけるヒップホップの受容ということを考えるときに、私がいつも思うのは、これが「語り」のアートであるということで、そんなの日本人にわかってたまるわけがない、ということだ。別に「平和な日本では、アメリカのストリートの現状はわからない」などという酷なことを言うつもりはない。どちらかといったらこんな感じだ。「嘉門達夫の替え歌メドレーがアメリカのクラブで流行っていると聞いたらどう思いますか?」。まあ嘉門達夫が流行るとは思わないが、流行ったとしたら、だ。何かきわめて本質的なものからずれた流行り方をしている、と感じるはずである。そのアメリカ人たちの中に、日本でヒットした歌謡曲の「ネタ」を求めてNYやLAの日本人街の中古レコード屋を探索し、基礎的な日本語も勉強する人々が現れたとしても、やっぱり何か違うと思うはずである。

 この本の著者である白人男性2人にとっては、「アメリカの白人」という層ですら、すでにこのラップ・ミュージックの本質がうまく届いていない場所に見える。この本は、そのような場所にいる人々に宛てた、ラップ・ミュージックの解説書である。

 しかし、この本が書かれたのはすでに10年近く前のことで、その内容はすでに「前史」とでもいうべきか、この本に注ぎ込まれている熱狂はもはやありえないものになっている(のだと思う。よく知らないが)。この本では、ギャングスタ・ラップの過激化がこのまま進めば、レコード製作中に殺人が行われたことをウリにするしかなくなるのではないかという冗談めいた記述があるが、1996〜7年には、レコーディング中ではないにせよ、2PacとNotorious B.I.G.という2人の(それぞれ西と東を代表する)ラッパーが(おそらくは業界内でのいざこざが原因で)射殺された。しかも、その死後に出された両者のアルバムは、どちらも2枚組だったということが背筋を寒くさせる(しかもそれの出来がいいというところが泣かせる)。

 業界、またはリスナー界でどのように受け止められているのかは知らないが、私個人に関する限り、ギャングスタ・ラップはすでに冗談のようにしか聞こえず、おそらくPublic EnemyやN.W.A.が初めて登場したときのような驚きはどこを探してもなくなっている。そして、ヒップホップというスタイルは歌謡曲か抽象芸術の方向に向かって限りなくポップになり、ラップという歌唱法のハードな部分はラップ・メタルの方でかろうじて生き残っているというのが、20世紀終わりを迎えての事態なんだと思う。

 もう1つ。日本におけるヒップホップの受容は、それが日本語で歌われていたとしたら決して受容されなかっただろうという点で悲惨である。たとえば被差別部落民が「そうさ、おれたちはエタだぜ。皮職人の末裔だぜ」と歌うE.W.A.というバンドがあったとして、それが流行るとはとうてい思えない。山口組出身のラップ集団とかもちょっと想像できない。それがどれだけファンキーでヒップであっても、それに合わせて若者が体を揺らすとは思えない。

1998/12/01

TRCの該当ページへ

amazon.comの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ