O.J.シンプソンはなぜ無罪になったか

誤解されるアメリカ陪審制度

四宮啓 / 現代人文社 / 97/04/10

★★★

手堅くまとめているが、立場が一方的か?

 O・J・シンプソン裁判に絡めて、アメリカの陪審制度がどのように行われているかを解説した本。著者は日本の弁護士で、「陪審裁判を考える会」なるものに参加しているようだ。つまり、陪審制度は良い制度であるということを日本人に向けて力説する本である。

 シンプソン裁判を振り返ると、結局のところ結論は、「非常に疑わしい事件ではあるが、検察側が決定的なミスを犯した」というあたりに落ち着くのだろうか。しかし検察にその責任を負わせるのは少し酷で、これは推測に過ぎないけど、ロサンゼルス市警がいろんな不手際をしでかし、そのことを検察も知ってはいたのだが、まさか起訴しないわけにはいかないので、仕方なく敗北への道を突き進んだという印象を受ける。マーク・ファーマン刑事の疑わしい行動や、物的証拠の連続性の確保に失敗したことなど、普通のミステリ小説ならプロットとしてさえ失格だ。

 陪審について。以前、CBSの"60 Minutes"で、カメラが初めて陪審室に入ったという特集をやっていたことがある。これを見て少しばかり驚いた。アメリカの裁判小説では、陪審団はまったく予測不可能な行動をする素人の集団であるという立場で描かれることが多い。しかし、本当はこんなにひどいはずはないんじゃないの、と思っていたら、その"60 Minutes"の特集では、陪審員たちはきわめてしっかりとした議論をやっているのだ。たしかに、細かい法律の適用方法について混乱が起こることはあるけれども、最終的にはかなりの確率でフェアな結果が出るだろうと予想できるような議論のしかたである。

 そのことに関連して、シンプソン裁判で弁護側が使ったとされる「人種カード」に対する陪審員の感想はきわめて納得できるもので、本書の91ページによれば、「最終弁論の演出はいやでいやでたまらなかった。なぜなら、最終弁論で法律家に期待されているのは、すべての証拠を結び付けることですから。私たちはすべてを吟味し、聞くべきものだけを聞くように心がけました。もううんざりでした」。このセリフは、すべての法廷サスペンスの作家が記憶すべきものである。特にジョン・グリシャム。

 さて、著者は日本でも陪審制を復活させるべきだと示唆している(ように思える。明言はしていないかもしれないが)。陪審制を取り入れるということは、それに伴っていろんな変化を受け入れるということを意味している。たぶん司法取引をいまよりも増やさなければならないだろうし、弁護士の数も増やさなければならないだろう。裁判の報道のしかたも変えなければならないだろうし、できれば裁判に入るまでの報道のあり方も変わるべきだ。日本人が陪審員となって議論をするという風景が想像できないという論拠で、陪審制の実施に反対する人は多いと思われるが、それだけでなく、陪審制を行うためのインフラストラクチャがいまの日本にはない、という感じがしてならない。

 そういうインフラストラクチャが存在し、陪審制がうまい形で運営されているという理想形の姿は、アメリカの姿に近いという意味で民主的であるということは認めるし、もちろん私も個人的にはそっちの方がいいんだけど、そのためにはまず小学校から「自分の意見ははっきりと言いましょう」、「正しいと思うことは口に出して言いましょう」という教育を始めないとだめですな。

1998/4/8

TRCの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ