環境保護運動はどこが間違っているのか?

槌田敦 / 宝島社 / 99/03/11

★★★★

定性的には正しいはずだが

 1992年7月に発行された単行本の増補・改訂版。オリジナルの文章にどのような変更が加えられたのかチェックする気力はなかったが、たしかあの本の発行後に各方面からいくつかの批判が出たはずで、それらに対応したのだろうか。

 受けた印象は前回と同じで、定性的には正しいところもあるはずだが、定量的、また現実的にそう言えるのかどうか自信が持てない、というものだ。特に重要だと思うのは、「「リサイクル」では地球は救えない」(帯の文句)という主張の論拠である。突き詰めていえば、どのような資源であれリサイクル率が100%になることはないのだから、その資源を使っていればいつかかならず枯渇するということなんだが、ここからは枯渇までの時間の引き延ばしの効果が抜け落ちている。将来にどのようなテクノロジーが出現するかわからないので、引き延ばしは根本的な解決にはならないにしても、待ちの戦略としての意味はある。もう1つ重要なのは、個々人が「自分が生きている間だけは枯渇しないで欲しい」と考えることの効用である。「長期的に見れば必ず枯渇する」という言い方から「長期的に見れば太陽系はなくなる」という言い方までのスペクトルの中で、個々人がどのような射程で物を考えるかという問題において、「自分が生きている間だけは」という態度の短期的な戦略が、中長期的に見て人類にとって役立つということはありうる。しかしまあ、こういうのは細かいことで、この本の意義は単純化された挑発的な言い方をすることによって警鐘を鳴らすという点にあるのだろう。

 いくつか気になること。

 リサイクル推進運動の批判の中で、現在のリサイクルという概念そのものが持っている問題と、それがボランティア・ベースで行われていることから生じる問題がちゃんと区分けされていないように思えるので、ここで整理しておく。まず後の方から。

 一時期流行したリサイクル推進運動がボランティア・ベースで再生資源の回収を行ったために、リサイクル関連の経済の仕組みが破壊された、という批判がある。これは要するに、適正に動いていたマーケットをおかしくしたということで、行政による寄付金給付やその逆の課税という手段によっても起こりうる問題だが、行政による措置の場合には集中的に監視して管理できるのに対し、一般人の間のムーブメントとして起こると対処は困難である。これはリサイクル/環境保護に限ったことではなく、「ボランティア活動」に本質的に含まれている問題だ。

 これに関連する話として。かつて長野オリンピックのときに、「通訳・翻訳のボランティアが活躍した」ということが肯定的に報道されているのを知って驚いたことがある。何も金まみれのオリンピックに無償の労働力を提供しなくてもいいのに、というのもあるが(オウム真理教がほとんどゼロの労働力を使って安いPCを供給している、のに似ている)、密かに増収を期待していたであろう通訳者・翻訳者は非常に落胆しただろうし、このことによって確実に通訳者・翻訳者の人材の市場は打撃を受けただろう(まあ別に大したことはなかったかもしれない)。

 ボランティア活動をしようとする人は、自分が労働力を無償で(または低価格で)提供することによって、市場の供給側を撹乱しているのだということをつねに意識する必要がある。この労働力が今後もずっとその低価格で提供されるのであれば、市場は新たな均衡点で安定したということになるが、その場合には安定して労働力を供給しつづけるようにしなくてはならない。

 これに関連する話として、タバコの吸い殻のポイ捨てという問題がある。人々がポイ捨てをしなくなることによって生じる問題は、掃除人の雇用機会の消滅と、タバコのリサイクルが不可能になるということである。現代の日本人は、小さな政府の方がよいという考えから前者の問題を容認し、タバコの販売本数を増やそうというタバコ会社の陰謀によって後者の問題を容認し、街角でタバコを吸う個々の人に灰皿に吸い殻を捨てるというボランティア・ベースの労働を転嫁することによって、掃除人の機会を奪っているのである。これがあまり問題として強く意識されないのは、掃除人にはそれほどのスキルも必要ないから、必要が生じたら雇用すればよいと人々が思っているからだろう。ボランティア・ベースで故紙回収を行った人々は、故紙回収業者についても同じようなことを思ったのだと思われる。

 現在のリサイクルという概念そのものが持っている概念について。リサイクルの結果できた再生製品が、そうでない製品よりも高価であった場合、その再生製品の製造の過程ではエネルギーが無駄に使われている可能性がある。再生製品の方がそうでない製品よりも安いのであれば、とっくに再生事業を行う企業が登場しているだろうから、現在リサイクルが行われていないものについては、そのまま使い捨てる方が地球に対して優しい、ことになる可能性がある。もちろん、これは個々の資源と製品の特性を無視した言い方なので、われわれは具体的な個々の製品について、資源の収支の内訳に関する情報を入手する必要がある。この問題を扱うLCA(Life Cycle Assesment)の研究は最近流行しているらしいのだが、詳しいことはよく知らない。

 個々人が行うリサイクル推進運動は、エントロピーが増えた状態にある製品を、企業の生産ラインに戻せるように手作業での分別という労働を無償で提供することで、再生製品のコストを下げる活動というふうに位置づけることができる。もし、分別という作業を個々人が負担するだけで再生製品のコストが新規製品よりも低くなるのであれば、これは妥当なボランティア活動だと言っていいだろう。無償で分別回収してもコストが低くならない紙パックなどの製品のリサイクルを推進するのは無意味である。

 生産者の側に目を転じれば、個々人が行うリサイクル推進運動に転嫁すれば引き合う程度のコストで再生が可能な製品を作るのがよいということになるし、消費者はそのような製品を設計することを生産者に要求するべきである。しかし、これでも起こる問題が、そのように消費者に支持された製品が売れることによって、かえって市場のパイが広がり、資源+エネルギーの合計の消費量が全体で見て増えるという可能性である(再生率が消費量の成長率を上回っていれば、資源そのものの減少速度は低下するが、投入されるエネルギーの量は非再生製品だけが製造・販売されているときよりも増える可能性がある)。たぶん今後、飲料製品のPETボトルやアルミ缶の消費量は、このような流れに沿って増大していくだろう。こう考えると、多くのものが、個々人の選択としては、わざわざリサイクルを考えるくらいならば最初から買わないという方針をとった方が良いということになりかねない。この不況の、アメリカから消費の少ないことで責められている日本でそういうことを主張して果たして通るのか。

1999/2/26

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