警察が狙撃された日

そして<偽り>の媒介者たちは

谷川葉 / 三一書房 / 98/02/15

★★★

重大な本なのに、なぜこんな書き方を

 1995年の国松警察庁長官狙撃事件に関連する捜査の内幕を書いた本。著者はどこかの新聞の(たぶん複数の)社会部記者であるとされる。警察が、著者の正体を探るために、出版元の三一書房の取引銀行に、記録をひそかに照会していたということが明らかになって、大きな注目を集めた。

 正直いって、警察がこんなことをしなければ、この本は静かに消えていったのではないかと思う。三一書房だし、ってのはまあ措いといて、この本には大きな問題がある。こういう問題を扱う上での文体と構成を持っていないのだ。

 最も大きいと思った問題。たとえば236ページにはこのような文章がある(ただし、これは「あとがき」に相当する部分であり、この文章自体を例にとるのはフェアではない)。

すでに常に、組織は疲弊していた。最初から、警察には自己言及的な限界としての壁などなかったのだ。事件とこれに介在した<偽り>が消滅してゆく中にあって、痕跡以前の余韻のように、空虚な<象徴的な意味>だけが残された。ただそれだけのことだったのだ。

 これはまあ悪文だと思うが、それ以前に、このような文体をノンフィクションで使うと、その作品自体のクレディビリティが落ちるということを著者は意識するべきであった。神戸の小学生殺害事件の際に広く行われたプロファイリング的推論をすると、著者は年齢35〜40歳。大学時代に『現代思想』や『ユリイカ』を読んだが、いまは忙しくてあまり読んでいない。新聞記者としての記事は書いているが、見つけ出したことはオフレコばかりなので書けず、苦労して記事の中で「示唆」しても注目されず、何よりも悪いことに新聞記事的文体での文章を書かされているので欲求不満が溜まったので、この本ではこういう文体をついつい書いてしまった。

 こういう文体でしか書けない事柄というものはあるだろう。そして、著者が記者として取材した警察という機関が、こういう文体に物凄くマッチしているのだ、と著者がいいたいのもよくわかった。しかし、だよ。こういう仕事は、メインストリームのジャーナリズムでちゃんとした事実報道がなされているという前提があってはじめて意味のあるものです。『キネマ旬報』の映画評があるから『映画芸術』の映画評が存在を許される、という。読者としての私は、とりあえず事実をすっきりとした文体で読みたい。

 この問題は、本の構成全体にも当てはまる。私は、この本を通読しても、いったい何がどうなっているのかよくわからなかった。これは個々の文体だけの問題ではなく、構成の問題である。6ページに「本書に登場する警察主要幹部異動状況」が掲載されているのは評価できるが、いちいちこれを参照しているわけにはいかない。普通の読者は、「警察幹部」なんかの名前は知らないし、どの部局がどういう位置付けになっているのかも知らない。その点の配慮が本書には足りない。

 たとえ警察という機関が複雑でわけのわからないものであっても、それを明快に提示するのがノンフィクションであるし、複雑なcaveatは、それなりに「注」という形で付けるなどの配慮をして盛り込むものだ。そういう構成を作れば、自ずから、それぞれの章なり節なりで何が重要なのかがはっきりとしてくるだろう。わかりますよ、警察の行動はほぼあらゆる局面でひどかった、というのは。でもやっぱり、著者なりのプライオリティを付けて、それに沿った形で階層的に提示するべきだったろうと思う。ちなみに第6章は不要だったろう。

 こういう本を書いて出版した著者の勇気とやる気は認める。今からでも遅くない。ボブ・ウッドワードなどの文章を読んで、クレディビリティのある文体と構成を勉強し、警察の動きに対象を絞って、同じ題材を扱った本をもう一冊書くべきだ。それから、(もし何だったら実名で)第6章で扱っているような題材を、上で引用したような文体で、書きたいんだった書くべきだ。上で引用したような文体で汚染するには、あまりに惜しい素材なのだから。

1998/4/10

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