出版社と書店はいかにして消えていくか

近代出版流通システムの終焉

小田光雄 / ぱる出版 / 99/06/25

★★★★★

期間限定ながら超重要

 副題の「近代出版流通システムの終焉」が示すように、現在にいたる出版物の流通システムがそろそろ終わろうとしているという話。現在と過去の状況をカバーした非常に内容の濃い本で、語られていることは私のような書籍愛好者にとってはとても重要である。しかし、この人の言っていることが正しいのであれば、この本の主張はあと数年で無意味になってしまうわけだ。

 出版物の流通機構に対する批判は絶えないけれども、80年代から始まった郊外型書店の流行と、ここ数年の不景気が重なって、この仕組みが本格的な危機を迎えている、というのが本書の重要な主張である。この危機は、銀行の不動産関連の不良債権の問題と同じ構造になっている。

 取次は書店に対して金融機関としての役割を果たしてきた。新規に出店した書店に対する「開店口座」は、出店後しばらくの間、イニシャル・コストの分を取次が書店に貸し付けるという効果を持っている。そのように金融機関である取次が、いま問題となっている銀行よりもさらにガードが甘かったとしても不思議ではない。しかも新しく登場してきた郊外型の大型書店は、コストを節約するために不動産をリースする形をとるので、不動産を担保とすることすらできていない。

 このような状況の中で書店が倒産すると、書店が抱えていた赤字が取次の側の不良債権として確定する。さらに問題となるのは、書店が倒産したときの重要な差し押さえの対象である商品在庫(つまり本)が、究極的には出版社か取次がかぶる不良在庫となることである。このような事態を防ぐために、銀行がやっていたような赤字隠し(チェーン店の間での飛ばしなど)が行われているらしい。いずれにせよ取次には体力がないので、どこかで行き詰まることは明白だ。というのが、本書の指摘する一番大きな問題である。

 この問題が表面化したときに、取次に「公的資金」は投入されるだろうか? 実のところ、私は、投入は行われると思うので(準公的な資金だろうが)、現在のシステムが完全に崩壊することはないだろうと思っている。混乱の中で、余裕のあるチェーンによる店舗の買収が進み、小型書店の廃業が加速され、書店チェーンの寡占化が起こるだろう。本書では危機が表面化した後の状況についての予想はまったく語られていないのだが、ぜひとも著者の見解が聞きたいところだ。そんなこと語りたくないかもしれないが。

 これ以外にもいくつかの「問題」は指摘されているが、いずれもよく言われていることであり、そのなかには、むしろ歓迎すべき傾向や仕方がない傾向も含まれている。

 第2章の「近代出版流通システムの誕生・成長・衰退」はその名のとおりの内容で、非常に面白い。特に重要なのは、再販制と委託制の歴史の部分と、大衆向け消費財としての書籍(赤本、円本、文庫)とそうでない書籍の傾向に関する部分だ。当然ながら再販制と委託制を批判する内容である。

 第3章の「出版社・取次・書店はどうなるのか」では今後の展望が論じられるが、ここに来て著者の限界が見えてくる。著者のアイデンティティは「人文系の書籍を出す中小出版社」というところにあるのだが、それの限界である。そもそもそのような出版社の多くは、本来ならばすでに市場からリタイアしていてしかるべきだったのだが、著者がまさに批判している近代的(というよりも前近代的)流通機構に守られてきた部分があった。ここの部分をどう克服するのかが、この人たちの課題であるわけなのだが。

 とにかく「近代読者」と「現代読者」などという言葉が出てきてしまうことが問題である。この2つの言葉の意味についてはだいたい予想がつくと思うので省略するが、こういう枠組みについては2つの異論がある。まず、これはほぼ確信しているのだが、「近代読者」はいまも存在しており、その人口に対する絶対比率は昔からそれほど変わっていない(あるいは増えているかもしれない)。今日の出版関係者が「いい本が売れなくなった」と嘆くのは、(1)「近代読者」が購入する「いい本」の種類が変わってきている、のと、(2) 「いい本」が供給過多になっているという状況に気づいていないためだと思う。次に、「近代読者」のあり方が変わってきている。「近代読者」というものの典型的なあり方として、「新聞の書評を読んで本を買う人」や、「良心的な書店の親父と茶飲み話をしながら読む本を探す人」みたいなのが想定されている。そういう勘違いをしているから、「近代読者」の需要が十分に掘り起こされず、掘り起こされなかった分、その人は「現代読者」として振る舞っているのだ。

 著者は、新しい形態の古本屋(ブック・オフ)が出現し、そこで吉本隆明の著作などが100円で売られていることを嘆いているが、これはなぜ嘆くべきことなのだろうか。吉本隆明の本を買った人は、一生それを貯蔵しろということか? 話は逆で、実際著者も述べていることなんだが(しかし自分でその意味を理解していない)、「いい本」は全体として供給過多といっていいぐらい供給されているのだ。それなのに高い値段をつけていられたのは、まさに再販制に守られていたからである。

 インターネット書店についての理解においても、限界が露呈している。再販制の廃止が日本におけるインターネット書店の成功の鍵を握っていることはたしかだが、それがなくても、インターネット書店は弱小出版社にとっての大きな機会である。たぶん著者は「いい本」を作る「人文系の中小出版社」について、古い固定観念を持っている。たとえば、営業マンが「いい本」の価値を理解してくれる書店員と濃密なコミュニケーションを取りながら棚を確保するとか、装丁に凝って価格を高めに設定して少数販売するとか、新聞の書評欄や広告を宣伝活動の主体とするなど。そういう固定観念を捨てれば、インターネット書店がまさに機会であることがわかるはずだ。もちろん中期的には多くの弱小出版社が淘汰されてなくなり、長期的には現在のような出版活動そのものが営利的に成り立ちにくくなると思われるが。

 おそらく中長期的には、雑誌を除いて、紙の書物はほぼすべて「現代読者」向けのものになり、「近代読者」はその欲求を電子テキストで満たすことになるだろうと思う。

 なお、この本は書店、取次、出版社の3つを扱っているが、源流である「著者」が扱われていない(流通の話なので仕方がないけど)。しかし、本当に「近代読者」について語りたいのであれば、「著者」を議論から外すわけにはいかない。というのも、「人文系の中小出版社」には「いい本」を出してきた主体としての自負があるかもしれないが、ハードコアの「近代読者」にとっては出版社でさえも仲介者に過ぎないからである。

 という風に、まあ電子テキストに過度に思い入れをしてみましたが、どうなるんでしょうか。

1999/9/2

 少し整理して追加。出版物の再販制や委託制が論じられる中で、賛成派も反対派もあえて触れるのを避けている問題がある。「文化を守る」ような「良心的出版物」が、そのマーケットのサイズと比べると供給過剰になっているということだ(もちろん、どのような本が「良心的」なのかは非常に難しい問題であり、私はそんなカテゴリーに囚われていること自体に問題の根源があると思う)。この歪みのコストは、高い金を出して本を買う消費者に転嫁されているのだが、それ以外にも、流通マージンの低さ、出版社社員の低賃金労働、著者の低収入といった要因に支えられている部分が大きい。注意しなければならないのは、これが「郊外大型書店の出現」とか「読者の好みの画一化」といった、よく引き合いに出される外部的要因のせいで生じている現象なのではなく、上に述べた、経済的に非効率な活動が可能であるというまさにその条件のゆえに起こっている現象だということだ。そして、この枠組みを作り出しているのが、まさに「良心的出版物」という幻想なのである。

 もちろん、テクノロジーの進歩によって、この幻想を延命させることは可能である。インターネット上の書店、プリント・オン・デマンド、宅配便の組み合わせは有望に思える。もっとラディカルな、電子テキストのインターネット経由での配布は、いろいろな問題が解決されればもちろん理想的である。しかしこれは流通の部分の改善にすぎないし、コストが下がる分だけ供給過多の状況はむしろ悪化するだろう。

1999/10/31

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