公論よ起これ! 「日の丸・君が代」

法制化論議のなかで「日の丸・君が代」の封印を解く

藤本卓編 / 太郎次郎社 / 99/07/10

★★★★★

非常に興味深い日の丸・君が代批判の本

 日の丸を国旗に、君が代を国歌にする法案は結局成立してしまったが、この本は日の丸と君が代に基本的に反対する立場の人々の文章を集めたものである。帯には「多角的な視点」とあるが、これが見事に成功しているし、個々の文章にも良いものが多い。これは本当に珍しいと思った。

 榊原智史の「「日の丸・君が代」法制化推進の舞台裏」では、今回の法制化にあたって野中官房長官が果たした役割を中心に、法制化に向けての経緯が語られる。この野中広務という人はいろんな面で興味深い動きを見せる人で、1990年代の日本に大きな影響を与えた人物として今後も名を残すだろう。

 無着成恭の「賊軍の旗としての日章旗」は、この本で唯一、日の丸を日本国の国旗とすることに明示的に賛成している文章である。無着家が江戸時代の足軽の末裔であり、また東北県人であることから、明治の官軍と戦った幕府軍の旗、日の丸を支持しているのである。何か鼻持ちならない感じがするのだが、日の丸をこういう論理で本当に支持する人もいるんだということを初めて知った。

 ダグラス・スミスの「"嘘を生きる"ことのシンボル」は、この問題について素直に考えたときに出てくる答えをそのまま言っているという感じで非常に好感が持てる。

 教育関係者の文章が多いが、後に述べるようにこれは本当は「教育問題」ではないと思うにせよ、現場での受け止められ方がよくわかって興味深かった。

 さて、「日の丸・君が代」が「教育問題」であるとする論拠は非常によくわかる。この2つが戦前にもっぱら教育のツールとして使われたこと、戦後においても教育の現場で一番活発に論じられてきたこと、そしてそもそも国歌と国旗を教えるということは公教育の役割だと考えられること(必ずしも賛成はしないが)などなど。しかし、そろそろ、この問題を「教育問題」と明確に分離するべき時期なんじゃないかと思う。『所沢高校の730日』でも感じたことなのだが、あれは公立学校における校長、地方の教育委員会、および文部省と、現場の教師の間の緊張関係の問題であり、それが日の丸と君が代を契機として事件化したものに他ならない。たぶんこの緊張関係は日の丸と君が代を契機として表面化することが「最も」多いのだろうけれども、それでもこれは「日の丸・君が代」そのものの問題ではないのだ。

 それに付随して、この本でもアンケートを行っているけれども、高校生、中学生などの「日の丸・君が代」に対する意識、なんてのは問題とは関係ない。だいたい彼らは選挙権を持っていないわけで、本来問われなくてはならないのは、選挙権を持っている大人が「日の丸・君が代」にどのような意見を持っているかということなわけだ。また、公立学校における儀式のあり方という問題についても、学校以外の場所での「日の丸・君が代」のあり方の方が重要だ。どうもここらあたりの意識のずれが、教育関係者を中心とする反「日の丸・君が代」運動の論理の正当性を損なっているように思う。彼らこそが、将来選挙権を持つ人々を世に送り出しているのだ、というのは認めるが、論理の組み立て方として。

 個人的には、国旗・国歌はあっていいし、日の丸と君が代でない別のものを国民自らが選び取るというのが理想だと思うが、その結果として選ばれるものは悲惨なものになると思っている。たとえば、長野オリンピックのセレモニーの司会に萩本欽一を選んだのは国民である、というような意味で。国歌の作詞・作曲を小室哲哉に頼めばよい、というような皮肉をこめた言い方があるけれども、小室になったらまだましなわけで、坂本龍一でもまだましで、適当な例を思いつかないけど、たぶん演歌とかを作ってきた人の曲になるわけだ。そう思うと、日の丸と君が代でも別にいいよとも思う。どうせ外国からは「日本は国歌と国旗を変えることで戦争中の残虐行為を過去のものとして忘れ去ろうとしている」と非難されるに決まっているし。

1999/9/8

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