古墳とヤマト政権

古代国家はいかに形成されたか

白石太一郎 / 文藝春秋 / 99/04/20

★★★★

古墳時代に関する歴史研究の紹介

 古墳時代に関する歴史研究の紹介。古墳時代に関する知見そのものだけでなく、古墳の研究を通して日本列島の政治体制を解明していく研究手法の解説書としても非常に面白い。以下、いくつかのポイント。

 古墳時代とは、3世紀後半(あるいは中葉)から7世紀末までの時代を指す。すでに弥生時代終期から大型墳丘墓は日本列島各地に見られていたが、3世紀に入って特徴的な形を持つ前方後円墳と前方後方墳が出現した。これらの形は日本列島内部で発生したものと考えて間違いない(大陸から来たものではない)。これらの古墳には、その形や副葬品などの点で共通点があるため、広域の政治連合があったことがわかる。

 出現期の前方後円墳が畿内の大和とその近辺、瀬戸内海沿い、および九州北部に集中していることから、初期の政治連合はこのあたりをカバーしていたことが推測される。この政治連合が成立した経緯として、著者は、大陸や朝鮮半島からの輸入経路を巡る争いがあったとする。その根拠の1つは、弥生時代と古墳時代で中国鏡の分布が一変していることである。弥生時代の中国鏡はもっぱら北部九州から出ているが、古墳時代になると畿内を中心とした分布に変わる。従来、この変化は「権力の東遷」として解釈されることが多かったが、北部九州から畿内への土器の移動があまり見られず、その逆の動きはよく見られるということから、2つの権力の間で争いがあって、片方が勝利を収めたと解釈する方が適切である、とのこと。

 時期的に見て、この畿内を中心とする初期の広域政治連合は、『魏志』倭人伝に出てくる邪馬台国連合に他ならないと思われる。細かいところで年代が合わないらしいが、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性はないとは言えない。邪馬台国連合は呪術的な政治を中心とした政治体制だったようだが、広域にわたる大規模な古墳の造営は、各地方の首長が連合するという連合体制が現れたことを示唆している(このあたり、根拠がどうもよくわからない)。この時期、東日本にも前方後方墳が多く造営されており、ヤマトとは別の広域の政治体制があったことがわかるが、あまりよくわかっていないのは研究が遅れているからのようだ(特徴的な副葬品がないため、初期の前方後方墳を見つけることそのものが難しい、など)。

 初期ヤマト政権の巨大古墳は、3世紀中葉すぎから4世紀中葉ごろまでは、奈良盆地東南部の「やまと」の地に作られているが、その後、古墳の造営地の場所が何度か変わり、古墳時代中期の4世紀末から5世紀になると大阪平野の南部に移る。巨大な古墳はおそらくヤマト政権の最高権力者の墓だと思われるので、古墳の移動は権力中枢の移動を示唆している。これが何を示唆しているのかという問題は興味深く、その答えにも諸説あるようだ。王権が複数の氏族の間で移動した、遷都した、墓の位置は必ずしも政治センターの位置ではない、などなど。本書の著者は最初の説をとっているようだ。このときに重要なのは、この王権の移動が武力によって起こったものではないらしいということで、そこから想像される状況は、「やまと」の地に本家がいて、その周辺に本家との婚姻関係を持ちながら広域的な盟主権を持ち回りする複数の集団があった、というものである。

 5世紀後半になって、畿内では巨大古墳の造営が続くのに対し、それまでは巨大古墳が作られてきた地域に巨大古墳がなくなっていることから、政治体制が大きく変わったことが推測される。これは首長連合が解体し、ヤマトの王権が拡大したことを示唆している。著者はこれ以前の時期を「初期ヤマト政権」、これ以降の時期を「ヤマト政権」と呼んでおり、前者の盟主が「王」、後者の盟主が「大王」である。

 6世紀になると、関東地方に大型の前方後円墳が多数造営されるようになる。これはヤマト政権が関東地方に強い基盤を持つようになった、しかし古墳の造営の基準は関西地方とは違うものだったことを示唆している。6世紀末になると、全国的に前方後円墳が造営されなくなり、方墳や円墳が作られるようになる。これは中央からの指令があったことを示しており、国造(くにのみやつこ)制との関連があると思われる。つまり、「前方後円墳の造営停止は、ヤマト王権が各地域の複数の政治勢力のうち有力な一つを選び、これを国造という地方官に任じ、これを通して地方支配を貫徹しようとしたものであろう。それは首長連合としてのヤマト政権を否定し、大王を中心とする中央集権的な地方支配制度への方向を明確にしたものにほかならないのである」(p.190)。

 そして7世紀の終わりごろに律令制古代国家が成立する。

1999/9/21

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