反面教師アメリカ

堀武昭 / 新潮社 / 99/08/20

★★★★★

力作

 著者は米日財団副理事長などを経て、現在はフォーラム2000財団理事をやっている人。アメリカ人と接するなかでアメリカ嫌いになったというタイプなのだが(これに類する人は、いままで取り上げたなかでは日高義樹、副島隆彦、片岡義男などがいる)、そういう人が書いた本の中で、いままで見たこともないような高品質のエッセイだった。思うに、これは著者が「財団」の仕事をしてきた実務家であるということが強く効いているのではないかと思う。国を背負う官僚や政治家ではなく、ジャーナリストでもないという微妙な立場である。

 第1章「底抜けのお人好し、世界一の田舎者」では、ニューオルリンズの田舎町での滞在記を通して、アメリカの保守派の基盤となっている田舎の白人の姿を描く。日本人を「ジャップ」と呼ぶフランス系の老人、それをたしなめる姪が黒人を「ニガー」と呼ぶ、というような情景はなかなか壮絶である。

 第2章「自由と公平の迷惑な伝道師」では、ジョージ・ソロスの活動を通して、アメリカの(特に中東欧に対する)文化帝国主義を描く。著者は『グローバル資本主義の危機』の出版直前にソロスのインタビューを行っており、そのときの様子を紹介している。興味深い指摘がある。ソロス、ビル・ゲイツ、テッド・ターナーなどの大金持ちになったアメリカ人が財団活動を行うのは、アメリカという国が敵として立ちはだかったときの変節なのではないかというのである。

 第3章「正義はわれらにあり」は、マクナマラ元国防長官に対して行ったインタビューの模様を中心に、アメリカのパワー・エリートの思考のあり方を描く。これに、マクナマラを広島に招聘したときの講演の様子を続け、最後にスミソニアン論争に言及する(スミソニアン論争については、『拒絶された原爆展』『戦争と正義』を参照)。

 第4章「調教師のメンタリティー」は、捕鯨問題を中心に、日米関係について論じる。興味深いのは、アメリカ国内でのベトナム反戦運動と環境問題のリンクである。アメリカ政府が、ベトナムへの介入に対する批判の矛先をそらすために、自然保護運動を推進したというのだ。

 この本には示唆に富む記述が随所に見られる力作で、お勧めである。1つだけ引用(231ページ)。

どこの国とつきあっても同じ結論になってしまうのだが、個人でつきあうとその国の良さばかりが目につく。それゆえ国家間レベルの利害の衝突を理不尽とみなし、為政者がどこかで謀議、あるいは恣意的な世論操作を行い、政策と国民の意志とを乖離させていると考えてしまう。九五年、自動車部品問題を発端に発動された日本の高級乗用車全面閉め出し措置も、結局はアメリカの消費者に犠牲を強いただけで、事実、消費者は政府の決定を非難していると主張する日本の論調が目だつ。はたしてそうだろうか。アメリカの消費者は、他方で失業回避のため止むを得ないと政府を支持しているのである。我々に決定的に欠落しているのは、アメリカ人が共通して持つ、国のあり方への理解である、と痛感せざるを得ない。国として頭脳を持たず、リーダーシップに欠ける日本には、アメリカに抗すべき国論さえ纏めることができない。

 私は、むしろアメリカの方が、リーダーシップに欠け、国論を持たない日本という国を理解できないことの方が重要だと思っている。というのも、上の引用部分が本当に正しいかどうかはわからないけれども、正しいとしたら、これは実にわかりやすい構図である。仮に正しくないとしても、ワシントン内でのロビイストの競争の結果として出てきた政策であるというフレームワークの中で、個々の勢力がどのように動いたかを分析すればよい。そして、アメリカ国内では、大統領の支持率などの数字を通して、出てきた政策が「後づけ」で、国民に支持されるのである、と考えればよい。一方、日本にはこういうようなメカニズムはまったくない。そしてウォルフレンを代表とする日本論者は、これを説明しようとして、体制と市民のニ層構造を見て取る。しかし、『なぜ日本人は日本を愛せないのか』の項で指摘したように、このニ層構造は日本国民全体が意図的にとっている構造なのだ。おそらくアメリカ人には、そのような社会の中に生きることがどのようなことなのかを想像することもできないのではないだろうか(ウォルフレンはアメリカ人じゃないけど)。

 もちろん、わかりやすいということは美徳である。それはそうなんだけど、そういう国には知識人って育たないんじゃないかというのが正直な感想。まあ別に知識人がどうしても必要というわけでもないんだけど。

1999/9/27

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