「疑惑」は晴れようとも

松本サリン事件の犯人とされた私

河野義行 / 文藝春秋 / 95/11/30

★★★★★

日本にこういう人がいたのか、という感慨

 松本サリン事件の犯人と目されて捜査と報道の対象となった著者が、地下鉄サリン事件の後に、当時の体験を書いた本。

 この本を読んで改めてわかったこと。昔から、日本における有名どころの冤罪事件に関する記録を読んでいて思っていたことがある。冤罪事件に関する記録は、だいたいが、それが冤罪ではないかと疑った人が、裁判の進行中に、または有罪判決が下った後に、冤罪の証拠を人々に訴えるために書いている。そのため、ほとんどの場合、冤罪が起こった理由は警察の横暴にあるという示唆がなされる。しかし、この手の警察の横暴は、被疑者となった人々の教養の低さとカップリングして現れてくるのではないかとつねづね思っていた。

 松本サリン事件の捜査の経緯をどうまとめるかは難しい。しかしとりあえずここでは、河野氏は自らの力で冤罪をまぬがれることに成功したといっておこう(結果として起訴にたどりつかなかった)。これには河野氏の教養の高さが大きく貢献していると思う。ここでの「教養」とは、近代的な市民の権利が自分にあるということを知っており、それを行使するだけの力を持っているということだ。

 松本サリン事件で、河野氏が犯人と見込まれるような立場に置かれたのはまったくの偶然だった。その偶然の札を引き当てたのが、このように教養の高い人だったということに驚かざるをえない。だいたいこんな人、日本人100人の中に1人いるかどうかぐらいの珍しいタイプの人のように思える。残りの99人であれば、起訴までは持ち込まれていたかもしれない、というのがこの本を読んでの感想だ。

 いま進行中の、これに類した事件には、東電OL殺害事件で起訴されたネパール人と、東京都北東部を中心に起こっている通り魔事件を自供させられた青年の件がある。どちらも、どのような経緯で警察がでっちあげを行ったかがある程度はわかっており、警察が教養の低い被疑者に対して強圧的な行動に出たということがわかっている。うむ、教養という言葉はよくない。素直に社会的弱者とでも表現する方がよいのかもしれないが、「社会的弱者」という言葉はこの文脈ではトートロジーっぽくなるので。。。

 さて、上で「教養」という言葉をあえて使っているのは、これが底上げが可能なパラメータであるということを強調したかったからである。たとえば、「警察に事件捜査でアプローチされたら弁護士を呼ぶ」、「逮捕されたら黙秘する」、「誤った報道をされたら訴える」などの教養をすべての国民が身に着けたら、それに応じて警察もメディアも行動原理を変えるだろう。逆に言えば、警察とメディアは、何の自意識も持たない(しかも相当クオリティの低い)機械であり、その動きの慣性は非常に大きいので、直接の変革は不可能に近いのだ。警察の横暴を訴えたり、報道の倫理を提唱しても、冤罪と誤報による被害はなくならないということは、すでにはっきりしていると思う。変わらなければならないのは国民の方だ(その意味で、前述のネパール人の件は、ペルーを旅しているうちに現地の軍人に殺されてしまった日本人を連想させて悲惨だ。後進国に足を踏み入れるときは、それなりの覚悟をしなければならないということか?)。

関連サイト

河野氏のオフィシャル・ページ

同志社大学の浅野健一ゼミのページ

1998/4/13

『妻よ!』は妻の看病をする様子を綴った本。

『報道被害者と報道の自由』は三浦和義の弁護人をつとめた人による報道被害の理論的な本。

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