アメリカ司法戦略

浜辺陽一郎 / 毎日新聞社 / 99/10/20

★★★★

司法のアメリカン・スタンダード推進派による啓蒙書

 著者はアメリカでも活動していた弁護士。この本は「月刊国際法務戦略」という雑誌に1995年から1998年にかけて連載されたものをまとめたものらしい。「グローバル・スタンダード」としてのアメリカの司法制度について解説し、日本もこれに対応しなければならないと説く本で、著者はこの「グローバル・スタンダード」を普及させることに関心を抱いている当事者であるのでそれなりにリキが入っている。

 関連する話題としては、『地獄への道はアホな正義で埋まっとる』で著者の宮崎学が中坊公平とそれに象徴されるような行政指向弁護士(本書で賞讃しているところのローヤー)に対する強い嫌悪感を顕にしている。『違法弁護』『司法戦争』の中嶋博行は、アメリカ人弁護士の日本への参入と、それに対する日本の法曹からの反発というテーマで小説を書いている(面白くはない)。

 アメリカ製リーガル・サスペンスの愛読者は読んで損がない本である。非常に偏った立場ではあるけれども、いままであまり明確に考えていなかった点がいくつか指摘されていて何度かはっとさせられた。もちろん本書が日本における法律サービスのマーケットを拡大しようという明確な意図を持った宣伝本であることは念頭に置いておかなくてはならないけど。以下、興味を抱いた論点をいくつか。

 109ページの「政府は被告か原告か」。国と民間人の間で起こる民事訴訟に関して、両者がどういう当事者として現れるかという点が日米では逆になっている。日本ではだいたい民間人が政府を訴えるけれども、アメリカでは政府が原告となって企業を訴えるケースが目立つ。この違いが生じている原因としては、(1) アメリカの政府機関にローヤーが多い、(2) アメリカの連邦国家賠償法などには裁量免責条項が規定されていて訴えにくい形になっているが、日本の場合は、国や公共団体が不法行為をした場合には、その国または公共団体が責任を負うと規定されていて、裁量免責条項が明文で規定されていない、などがある。

 この違いはたしかにあって、その結果、国と民間人の間で行われる裁判というものに関するイメージが日本とアメリカで食い違うということが起こりうる。いわゆる人権派弁護士が何十人もの弁護団を結成して、人権を侵害された原告の権利回復を求めて国を訴えるという図式は、人によっては違和感を感じるものらしく、あれにどのような意義があるかを説明しようとして苦労したことがある。私としては、あのような活動にはそれなりの意義があると主張したいのだが、勝ち目は薄いし、別に多大な賠償金が勝ち取れるわけでもないし、勝ったとしても行政側に行いを改めるインセンティブがないじゃないかと反論されると答えにくいのだ。一方、行政側が企業を訴え「ない」ことについては、行政指導の強力さを誉め称えなくてはならなくなるので始末に困る。

 第4章の「"悪者"を刑務所に送ればそれでいいのか」は、「民事司法重視VS刑事司法重視」という副題を持っており、アメリカの民事訴訟の懲罰的賠償が、民事訴訟を通して、すなわち行政を通さずに、社会的な正義というか公正を実現するという発想なのだということが語られる。これに対して日本では、刑事司法にそのような役割が集中して与えられている。つまり私人は秩序の維持に参加することが期待されていないのである。

 O・J・シンプソンが刑事裁判では無罪になったが、民事訴訟では巨額の賠償金の支払いを求める判決が下ったというケースが、このような「バランスの取り方」の象徴だと著者は述べる(シンプソン裁判については、陪審制の観点からではあるが、『O.J.シンプソンはなぜ無罪になったか』が興味深かった)。アメリカ人の間でも、O・J・シンプソン事件は全体としてアメリカの司法制度を疑わしめるきっかけとなったという声があったと思うんだが、まあこういうような考え方もあるということで。たしかに日本では、もしO・J・シンプソンが殺人を犯していたのであれば有罪判決が下るべきであり、有罪判決が下らなかったのであれば民事訴訟でも賠償金を払う筋はないというのが普通の受け止め方だろう。この考え方からすれば、警察と検察の側の力を強化していくのは当然の流れである。逆に、アメリカでそのような「バランス」という考え方が出てくるのは、刑事司法の無力さの反映であるとも言える(現代の検察/警察小説では、法執行機関の無力さが一大テーマとなっている)。

 別の例として、日本では刑事訴訟にせよ民事訴訟にせよ、当事者の勝ち負けが弁護士の手腕によって決まったと認識されることはまずない(検察が負けたときに警察と検察の落ち度が論じられることはあるにしても)。逆に、国を相手とする裁判で負けることが、何か難しい仕事にチャレンジしたことの証拠として賞讃されることすらあるかもしれない。弁護士の世界はぬるま湯のように居心地のよいものになっているはずだ。

 いずれにせよ注意しなければならないのは、この本でも再三強調されているように、このアメリカの司法スタンダードはアメリカ本国でもごく最近になって生まれ、定着したものだということだ。初期のリーガル・スリラーでは、クラス・アクションを起こすというテーマそのものだけで本が書けた。ミランダ警告を行わなかったから無罪になる、というようなトリックがそこそこ真面目に使えたこともあったはずだ(いまだったら、そんなプロットで本は書けない)。逆に、その後のリーガル・スリラーの進歩は、アメリカの司法スタンダードを受け入れた場合に日本がどのような道筋を辿る可能性があるかということのヒントとなっていると言うこともできる。で、それはほとんどの日本人にとって受け入れがたいと思われる未来を示唆しているのだが、ほんとにいいんだろうか。

1999/11/7

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