日本の無思想

加藤典洋 / 平凡社 / 99/05/20

★★

最初でつまづいたため理解できなかった

 敗戦→戦後のねじれ→タテマエと本音→思想の死、みたいなモチーフの話。「タテマエとホンネ」の話は『敗戦後論』にも出てきたけれども、本書ではこれが中心に据えられている。

 300ページ近くの本なのだが、80ページほどの第1部で躓いてしまったため、後の方がほとんど読めなかった。理解しようとして第1部を何度か読み直したのだが、結局あきらめた。

 躓いたのは、論の出発点となっている「政治家の失言」の解釈の仕方である。著者は失言と暴言が異なるものであることを指摘し、失言の背後には、発言者のホンネの持ち方が社会によって諒解されているという状況があると述べる。また、朝日新聞のような、政治家の失言を非難するメディアの論理も、やはりこの諒解を共有しているから、同じ穴の狢だと述べる。ここまでは理解できるし賛成。ところが著者はこの次のステップで、この共同性はほとんどの日本人に自覚されていないと述べ、この自覚のなさをいろいろ分析してこれを「無思想」というコンセプトにつなげるのである。この「自覚されていない」という部分がどうしてもわからない。日本人であれば誰でもこの仕組みを自覚しているんじゃないか? 著者が「この共同性から脱却すべきだ」という意見を持っていることはわかるし、その心情も理解できないわけではないのだが、その論理の基盤に「社会がそれを自覚していない」という話を持ってくるのは完全に間違いで、むしろこれを自覚していながら放置しているというところが「政治的アパシー」の発生源なのである。これは「政治家の失言」が出てくることの原因でもある。

 普通の感性を持っている日本人ならば、加藤の言う「社会がそれを自覚していない」という話そのものが、「この共同性から脱却すべきだ」という意見を支えるためのタテマエなんではないかと尋ねたがると思う。もしこれがホンネなら、ああこの人は日本人じゃないんだなという感想を抱くことだろう。別に加藤が日本人である必要はないわけだからそれはそれでいい。しかしそうだとしたら加藤の論は西洋人の文化人類学者が日本社会に関して浅い論考をしている、というていどのものになる。で、タテマエだとしたら…。タテマエを使って「タテマエとホンネ」の本を書くという行為を、アクロバティックな試みと呼ぶか、無節操と呼ぶかは人それぞれだと思うが。

 この「政治家の失言」論の正しいバージョンを簡単に述べておく。政治家の政治的行動はネゴシエーションが可能なものである(それはタテマエを通してホンネを実現するという戦略が可能なことや、ネゴシエートしないと生き残れないという事情などによる)。ネゴシエーションの結果、外に向かって表明されるのがタテマエである(ホンネとタテマエの境界が流動的なのはこのためである。ホンネとタテマエが完全に一致している人がいたとすれば、それはその人が政治的強者であるということに過ぎない)。著者が共同性と呼ぶような概念は、上記の事情が人々によって認識されている、という風に表現するのが正しい。「政治家の失言」がなぜ起こるかというと、(特に自民党の)政治家が、特定の問題領域においては、選挙民によっても党内の生き残り競争においても、タテマエにおいて淘汰されないからである(日本の政治家は「正しいタテマエ」を言うことも求められていなければ、「タテマエをうまく言う」ということも求められていない)。このパラグラフの内容はほとんど普遍的なことで、唯一「日本的」と言えるのは、政治家が「タテマエにおいて淘汰されない」の部分にあるが、どの国にも、固有の「それに関する意見によってタテマエが淘汰されない事柄」があるだろうとは思う。

 上のパラグラフを加藤の「共同性」論にマッピングするならば、「社会による諒解」は政治家の行動が理解されていること、「非難するメディアの論理」はタテマエによる淘汰を行うことの要求である。だからこういうメディアは「進歩的」と呼ばれているのだ。そうでしょう?

 進歩的である私がさらに論をつなげるならば、日本の政治のまずさは、タテマエによる淘汰が行われていないところにある(この立場から言うと、加藤の議論は反動的なのだ。まあ彼の議論がどういうものなのかがそもそもよくわからないんだが)。本書で取り上げられている朝日新聞の社説は、そのようなプロセスの徹底を要求する(朝日新聞独自のタテマエに基づく)政治的主張という風に理解できるし、失言をした政治家をクビにするという首相の行為も、珍しくそのプロセスが働いた「良いプラクティス」という風に理解できる。つまりこのレベルでは政治は正常に機能しているのだ。政治家の国会での投票行動や、党内での活動に基づく淘汰も行われるようになれば、もっとわかりやすくなるだろう。それがいいことかどうかは別として。

 なお、この「タテマエとホンネ」の論が政治家の行動に偏っているのは、加藤の論の出発点がそれだからである。しかし本書では、その出発点を出発したあとにいきなり公的世界とか「内と外」とかの議論をしてしまっていて、むしろそっちの方がメインの内容となっている。この部分はよくある文化人類学的屁理屈。

1999/11/12

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