正義の喪失

反時代的考察

長谷川三千子 / PHP研究所 / 99/11/04

★★★★

ばらばらなエッセイをまとめた評論集

 保守的思想家の著者が長期にわたって書いた短い文章をまとめた評論集。第一章から第四章までは、戦争に勝つことと正義の関係、西洋文明の侵略、国際経済の侵略といった問題を扱っており、いずれも読み応えのある力作だった。

 第五章「フェミニズムという病理」は男女雇用機会均等法に対する批判を立脚点として、社会的男女平等論のフェミニズムを批判している。一〜四章が、取り戻しのつかない問題の病根を批判的に抉りだすというスタンスであるのに対し、こちらの方はアクチュアルな問題であると理解しているような感じを受けた。この対照的な扱いは意外だった。この意外性を認識しているらしい著者は、あとがきにこう書いている。

かうして全体をふり返つてみると、なんだか裏も表もさらけ出してしまった、といふ感じがなくもない。最後まで読まれた読者は、なんだ、偉さうな顔をして国際正義だの国際経済だのと講釈をして、ただの「オバサン仕事」であつたのか、とがつかりされる方もあつたであらう。その通りなのである。

 この「オバサン仕事」という言葉の含意は明確にはされていないが、私は、この最後の章が良い意味で余裕のない、切実な問題として語られていることに対する照れと理解した。一読者としての私は、最後にこんな章が入っていたことを嬉しく思ったが、書かれていることには違和感を感じた。以下に書くことは著者も諒解済みのことだとは思うが。

 結局、話は、第四章で扱われているボーダーレス・エコノミーが家庭に入ってきたということなのだ。著者は家庭を最後の砦として守りたいと考えているのだが、私はもう引き返すのは無理だと思う。著者が社会的男女平等論のフェミニズムの論を批判するやり方は正しいと思うが、もちろん敵はフェミニストではなく、それを支えているもっと大きな社会的諒解であり、そこの部分が引き返し不可能である以上、負け戦は目に見えていると思う。それで思い出したのは、『コウモリであるとはどのようなことか』でトマス・ネーゲルがアファーマティブ・アクションに関して述べていたこと。彼は、現在のシステムは個人の知的能力に基づいた不公平な配分を行うシステムであり、もともと不正義であるから、アファーマティブ・アクションを実施しても「深刻に不正義である」とは言えない、という論を展開していた。この論は発表当時からもともと受容不可能だったのかもしれないが、いまの世の中ではいっそうバカげて聞こえる。

 たしかに社会的男女平等論のフェミニズムの論の多くは、この「知的能力」による不公平な配分を肯定するという点できわめてメインストリームのものなのである。そして家庭内労働とか雇用機会均等を論じるフェミニストの口ぶりがときに曖昧になるのは、自分がこの不公平さに荷担していることに気づくからだ。しかし、この曖昧さを批判しても、ボーダーレス・エコノミーの家庭への侵入は防げない。第四章に基づく比喩を使えば、西洋の植民地になりかかっている国が、キリスト教の宣教師の欺瞞を批判したところで、西洋諸国との貿易が始まるのを避けることはできないようなもので。外圧が強いだけでなく、国内にも貿易によって利益を得る人がいるわけだし。

 この避けられない未来は、著者の立場を借りていえば、家庭に経済関係が入ってくることによって、これまではコスト意識なしに(いわば無償の労働として)行われた家庭内育児にコスト意識が生まれ、そんな育児によって育てられた人間は駄目になる、という図だと思われる。私は、人間には順応性があるからすぐ慣れるんじゃないの、という感じでそこそこ楽観的だ。そもそも著者の理想像も歴史的に不変かつ普遍のものではなかったわけで。変化によって失われるものもあれば、得られるものもあるし、現在のあり方が将来、「子供が親によって育てられていた、なんとも乱暴な時代」として回顧される可能性だって十分にある。もちろんそんな未来を忌み嫌うのは保守派としてはまっとうな態度だ。

 私は「知的能力」による不公平な配分に懐疑的だが、これがシステムの恩恵を受ける立場にあるがゆえの余裕であることは承知しているのであまり大きい声ではいえない。で、こういう余裕から生じる「保守」の方が、私にはリアリティがある。その点で、私から見ると、著者の態度は家庭内の主婦の正当な権利主張に過ぎないとも思えるのである。別の言い方をすれば、主婦という立場の(観念上での)アファーマティブ・アクションを求める声というか。

1999/11/12

TRCの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ