人体部品ビジネス

「臓器」商品化時代の現実

粟屋剛 / 講談社 / 99/11/10

★★★★★

バランスのとれた面白い本

 臓器に限らず「人体部品」全般の商品化を扱った本。著者は医事法社会学を専攻する学者。「人体部品ビジネス」の現状に関するレポートと、バイオエシックスの分野での論考の両方が扱われている。

 ビジネスの現状に関するレポートは、アメリカの人体部品提供会社であるクライオライフ(CryoLife)の訪問記から始まり、フィリピンの刑務所での臓器売買と、インドのいくつかの都市で行われている臓器売買の調査を紹介している。特にこの部分は、現地に足を運んで当事者たちと話をしているだけに生々しい。著者はどちらかというと人体部品の移植に対して肯定的な立場をとっているが、これには売買の現場を実際に見てきたことが大きく影響を与えているようだ。

 とはいいながらも、バイオエシックスを扱った部分はきわめて誠実に書かれていて、非常に面白い。臓器移植を倫理的に否定する議論は、最近では池田清彦の『正しく生きるとはどういうことか』にあったが、あれとは比べ物にならないほど誠実である。とはいいながら、たぶんこういう問題では論者はさきに結論を持っており、あとはどうやって理屈づけるかという勝負なのだから、現実に身を寄せている方の粟屋が池田よりも整合性のある議論を展開できるのは当たり前のことなのかもしれない。『正義の喪失』では家庭内に経済が入ってきたことによる男女同権問題が扱われていたが、こちらは人間の身体に経済が入ってきたことによる問題であり、現在の経済の仕組みを肯定する部分が少しでもあれば、伝統的家庭の崩壊/人体部品ビジネスを完全に否定するのは難しい。

 なお本書では、『ソイレントグリーン』的なSF的世界にまで言及してカニバリズム論を行っており、人間の身体の食物としての未来的な再利用(ネオ・カニバリズムと呼んでいる)を人体部品移植の延長線に見ている。まあそういうふうにラディカルである。

 グレッグ・イーガンのSF小説『順列都市』には、「スキャン」されてコンピュータ・ソフトウェアとして存在している人格(「コピー」)という概念が登場するが、このコピーの場合には、コンピューティング資源という有料の資源が、人格の存在そのものの基盤となっている。つまり金を払ってコンピュータの使用料金を払わないと、ソフトウェアとしての人格は存在できないのだ(ちなみに、果たして本当にそうなのかという哲学的な意識論も視野に入れられている)。

1999/11/19

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