順列都市

Permutation City

グレッグ・イーガン / 早川書房 / 99/10/31

★★★★★

たしかに先鋭的な小説

 著者のグレッグ・イーガンは帯によると「90年代最高のSF作家」らしい。1999年の時点で予見可能な範囲の世界観の中で、コンピュータへの人格のダウンロードが可能になった世界を描いたもの。認識論哲学の題材をベースに、起こりうるさまざまな問題をエンタテインメントとして提示するその姿勢が楽しく、まさにpage turnerだった。ただしそれは上巻までのことで、下巻の大半を占める、きわめて納得しにくい理論をベースにした「順列都市」の描写は、古いタイプの仮想現実小説(なんなら「サイバーパンク」と呼ぼうか)の荒唐無稽さに満ちている。これを好むかどうかは人それぞれだと思うけれども、前半と後半の両方を好む人は多くないんじゃないだろうか。私は読者としての本読みモードの切り替えにずいぶんと苦労して、いちおう両方を楽しむことができたけれども、著者の悪意をひしひしと感じた。

 ちなみにこの本で意図的に無視している(そのために物語全体を危うくしている)要素は、自由意志の問題である。自由意志は、すでに人間を生化学的なレベルでシミュレートする「コピー」の段階で「問題」となってしかるべきはずだったが、それを無視したつけが、決定論的なオートマトンである「オートヴァース」のところに回ってきているのだ。そもそもマリア・デルカが執着するオートヴァースについては、人間の大雑把なシミュレーションである「コピー」と、現代のコンピューティング資源ではシミュレートが不可能な量子力学的シミュレーションの間のレベルに位置し、それが単純かつ決定論的であるがゆえに、そのシステム内では自然界に見られるような進化が(また究極的には意識の進化)が起こらないという仮説があった。だが、実質的に無限のコンピューティング資源を使える仮想空間内で、マリアの設計したエデンの園コンフィギュレーションを使った実験を通して、進化が起こることが実証されたわけである。しかし、これは当たり前のことだが、進化とか意識に関しては、オートヴァースの方が「コピー」よりも有利な位置にあるわけであって、オートヴァースに関して上記のような問題が議論となっている状況では、「コピー」についての方がもっと議論が生じているはずだ。したがって、実際に「コピー」になった人、というか「コピー」そのものは、認識論的な問題よりも、自由意志の問題の方にずっと深刻な悩みを抱えるはずである。私は上巻を読んでいる過程で、この問題は無視して回避するという戦略なのかと思ったが、オートヴァースの話が出てきた時点でそういうわけでもないことに気づいて、居心地の悪さを感じた。

 エンディングが示唆しているが、もしかしたら著者は「コピー」は正当な自由意志を持っていなかったという結論に持っていきたかったのかもしれない。そうだとすると、この本全体がとんだ食わせ物だ。普通の読者は「コピー」なるものが出てきた時点で、いったんそのような結論を予想するはずだが、物語がどうもそれとは違った展開をするから、いったん判断を停止して読み進めるのである。それなのに最後まで来てそんなこと言われても。たとえば『スネーク・アイズ』という映画では、軍人役のゲイリー・シニーズが出てきた瞬間に、映画の中でどのような事件が起こるにしても、彼がその黒幕であるということがわかってしまう。ニコラス・ケージ演じる主人公は、ゲイリー・シニーズがそんな役者だということを知るはずもないので気の毒だとはいえ、彼が黒幕だということを見抜けないバカに見えてしまうという、まあそれと同型の問題である。

1999/11/26

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