大絶滅

金子隆一 / 実業之日本社 / 99/11/21

★★★

まあリファレンスとしては便利だが

 生物の大絶滅を論じる、「と学会」的本。この場合の「と学会」性は、(1) 「ガイア」としての地球の美化と、そこから生じる反知性主義を批判し、(2) 特に恐竜の絶滅の天体衝突仮説が1990年代後半の時点でほぼ無効になっているのに、メディアが依然としてこれを取り上げ続けていることを批判する、という点に現れている。

 上の(1)について。私の方がずれているのかもしれないが、最近、ガイア→反知性主義というつながり方の議論をほとんど見掛けないように思う。私の印象はむしろその正反対で、たとえばほぼ同じ時期に製作・公開されたハリウッド映画、『アルマゲドン』『ディープ・インパクト』は、地球に到来する隕石をガイアに対する脅威として位置づけ、それに人間の知性が立ち向かうという強固な科学主義/知性主義に基づいている。このところ保守化の度合が激しいハリウッド映画において、それ以外の立脚点はありえないわけだけれども、そのことは逆に本書の著者が主張したがっているようなガイア→人間中心的知性主義というつながりが(少なくともアメリカにおいては)一般的であり、流行しているということを示している。

 まあ私の知らないところでガイア→反知性主義という議論が流行っているのかもしれないのだが。念のため、地球温暖化を怖れた二酸化炭素排出量の制限とか、遺伝子組み換え食品に対する規制に向けての流れは、「反知性主義」ではない。むしろ人間の環境を人間の手でコントロールしようとする強烈な意志をベースにした知性主義である、という風に私は理解している。個々の主張が科学的に見て妥当かどうかはまた別問題。

 (2)について。私はそもそも大量絶滅論の現状がどうなっているのかを知らないのだが、仮に著者のいうように天体衝突仮説が無効になっているとしても、1999年の時点で一般的な論調が「未だに」それに固執しているというふうに批判するのはちょっと酷ではなかろうか。そもそも1990年代の前半の時点でも、大量絶滅の周期説はまだ定説の地位は獲得していなかったような気がするし。

 ある意味で、天体衝突仮説と、本書で「正しい学説」として支持されているD''層周期浮上説の間の違いはマイナーなものだと考えることもできる。著者が両者の違いを重要なものとして見るロジックは次のようなものだ。すなわち、ガイア→反知性主義の議論は、人間をガイアにとっての異物(本書では癌という言葉が使われている)と見なし、ガイアに「母性」とか「生命を育む場所」みたいな観念を付与する。この枠組みの中で、外からやってきた天体が生物の大量絶滅を引き起こすというストーリーが語られる。しかし、地球物理学的なメカニズムそのものが、生物の大量絶滅を定期的に引き起こしてきたとするD''層周期浮上説は、「生命を育む場所」としてのガイアの観念を根本から揺さぶる、と(すでに述べたように、私はガイアの「生命を育む場所」としての観念がそれほど流行しているとは感じないので、無理矢理仮想敵を作り出しているという印象を受ける)。

 しかし、科学者社会と一般社会の両方にとっての天体衝突仮説の重要な意味合いは、生物の大量絶滅の非斉一説的な説明を受容させたという点にある。このことに比べたら、カタストロフィーを引き起こすのが外来の天体なのか、地球内部のメカニズムなのかという違いは些細なものだ。実際、恐竜の絶滅の天体衝突仮説よりも前の、生物の進化や大量絶滅に関する議論は斉一説に強く呪縛されていて、天体衝突仮説によって科学者社会と一般社会に生じた変化はまさにパラダイム・シフトと呼んでもいいほどの激変だったのだ、とたぶん後世の科学史家は言うだろうと思う。いまなら、地球の歴史の中で、カタストロフィックな出来事が生物の大量絶滅を引き起こすほどの大きな影響を与えた、という観念を受け入れないことの方が不自然に思えるが、ちょっと前までは、そういうのには非科学的というラベルが貼られ、最初から不利な立場に置かれたのである(過度な立証責任を負わされたというべきか)。

 そういう視点を持たない本書は、まあ、素朴な科学観に基づく、要するに「と学会」的な本である。最後の章のまとめ方なんかも、素朴ハードSF的。なお、著者は性選択という概念を知らないんじゃないかと思わせる記述がいくつか見られた。まさか知らないはずはないと思うので、そういうのを敢えて無視するところも「と学会」的。

1999/11/29

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