学校はなぜ壊れたか

諏訪哲ニ / 筑摩書房 / 99/11/20

★★★★★

身体から出てきていると感じさせる鋭い言葉

 著者は「プロ教師の会」の代表。この読書メモでは、他に、河上亮一の『学校崩壊』と喜入克の『高校が崩壊する』を取り上げている。

 本書は、著者の教師としての体験を時系列的に振り返り、戦後日本の子供の傾向性として「農業社会的な子ども」、「産業社会的な子ども」、「消費社会的な子ども」という3つの分類を立てて、自らの経験にこれをマップさせるという構成になっている。左翼思想の理想に燃えた若手教師として出発した著者が、子供たちの実際の変容に直面して、自分の考え方をどのように変えてきたかということが記されている。

 現場の教育者による抽象的な形での教育の論じ方は、1980年代にこの人が出てくるまでは、特殊な教育方法を採用している学校の特殊な理念を述べたものか、現場の教師が教材開発を含めたテクニックを論じたものか、日教組路線の政治的なものに限られていたように思う(「教育学」という自明なものもあるが)。現場での体験を踏まえながら、学校が持ってきた権威というものの失墜のせいで教師がどのような苦境に立たされているかを明確に言葉にしたのは、たぶんこの人が初めてなんだろうと思う。

 本書で行われている議論が本当に妥当なものかどうかは措くとして(本人もおそらく認めているのだが、どのような学校に赴任するかは、その教師の教育観・学校観に大きな影響を与えるだろう)、著者の文章を読んで感じるのは、この人がほんとうに物を考えながら仕事をしてきたんだなということだ。まさに実践と思想が両輪となってうまく走っているのである。最近では『裁判官は訴える!』という本で、裁判官の中に(かなりナイーブながらも)物を考えながら仕事をしている人がいることがわかった。教師と裁判官がともに、大きな権威を持ち、パフォーマンスの評価が厳しくなく、かなりの独立性を持って仕事を進められる職業であるということが効いているんだろうか。対照的に、ビール会社に長年勤めてきた人が書いた『おじいちゃん戦争のこと教えて』では、著者が会社に入ってから引退するまで何も考えてこなかったことが見て取れる。

 ちなみに、サミュエル・L・ジャクソンが教師役を演じる映画『187』では、教師と生徒が銃で殺し合う状況が描かれている。そのような状況でも、いま日本で話題となっているいわゆる「学級崩壊」という現象は起こらず、生徒が教師に敵意を抱いた結果として「荒れる」ことはあっても、全体として教室内での権威は残っている。ただし、いったん学校の敷地外に出ると、教師は身の危険にさらされる。どっちの方がいいか、というような問題ではなくて、社会的にすでに無理になっている状況で、むりやり学校と教師に権威を持たせると、学校の外で教師個人にその反動が来るということが示唆されているのだ。したがって、学校にもう一度権威を持たせるならば、コミュニティがその権威を完全にサポートしなくてはならない。そんなことがいまさら可能なんだろうか。

1999/11/29

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