攘夷の韓国 開国の日本

じょういのかんこくかいこくのにほん

呉善花 / 文藝春秋 / 99/09/10

★★★

ちょっとまとまりのない本

 『私はいかにして〈日本信徒〉となったか』などの呉善花が1996年に書いた本が文春文庫になったもの。

 日本各地に残っている、古代からの朝鮮半島と日本列島の交流の名残りを訪ね歩きながら、韓国で唱えられているという「日本人のルーツは韓民族である」という説に反論するという本。その説もそれに対する反論もちゃんと説明されていないため、どう受け止めてよいのかよくわからない。とりあえず、高麗大学教授の崔在錫という人の『百済と大和倭の日本化過程』(ちなみにこれは韓国の本)の内容を紹介している箇所を引用する(39ページ)。

五世紀はじめのころの韓半島では、高句麗と百済の間で激しい戦闘が引き起こされていた。その時期に、戦渦の苦しみから逃れようと多数の百済人が、大和へ集団移住して定着していった。それが四〇三年から四〇五年の間のことで、「弓月の君が百済から一二〇県の人民を率いてやって来た」などの『日本書紀』の記事がその集団移住を証拠だてている。
韓民族は北九州をはじめ、倭の各地に住んでいたが、大和倭(大和の倭)の建設は集団移住をとげた百済人の手によって、このときからはじまった。こうして、大和倭は百済の植民地として栄えていった。
五世紀の大和地域における百済人と日本原住民との関係は、大航海時代以降のイギリス人とオーストラリアのアボリジニ、あるいはイギリス人と北アメリカのインディアンと同じものだといってよかった。日本の原住民には満足な衣服もなければ文字もなく、まったくの原始状態にあった。そのような野蛮な未開地へ、高度かつ大規模な先進文化をもった百済人が集団移住をはじめたのである。それが五世紀のはじめころ、そこから本格的な日本列島の開拓がはじまったのである。その開拓は、宗教・技術・政治などすべての分野での開拓であり、いくつかの分野に限定された開拓ではなかった。

 そういうわけで「奈良時代にはもはや原住民の数は全体の四パーセントにも満たなかった。ということは、奈良時代の日本には「日本人」はほとんどいないに等しく、まさしく韓民族の地そのものだった、ということになるのである」(39ページ)ということらしい。

 もちろん、縄文時代と弥生時代、弥生時代と古墳時代、また各時代のいくつかの時期の間には連続性と違いの両方があって、その違いのなかには明らかに大陸ないし朝鮮半島からの影響と見られるものがあるわけだけれども、「倭」と呼ばれる集団が大陸や朝鮮半島の沿岸にまで分布していたことなども考え合わせると、実際にその時代が「どんな感じだったのか」を想像するのは非常に難しい。この難しさは、(本書によれば)朝鮮半島の古代史があまり進展していないことにもよっているらしい。現時点では、その「感じ」の描写のしかたは多かれ少なかれ論者の思いこみによって決まるといってよいだろう。上記の(孫引きした)崔在錫の説が1つの極を代表しているとすれば、本書はそれに対抗すべく、外国文化を柔らかに受け入れた日本列島という像を打ち出そうとする本である。しかしその対極の像も、何かまっとうな学問をベースにして作られたものではなく、著者があちこちを旅したときの印象に基づく散文的な像なので困ってしまう。

 最近日本で流行っているように見える縄文人崇拝(『海を越えた縄文人』など)は、時代を遡ることによって大陸や朝鮮半島の文化の影響の薄い「日本人の原型」を見いだそうというナショナリスティックな心情の現れだと思うが、そこにアイデンティティを見いだすのは難しいことは、『海を越えた縄文人』の項で述べたとおりである。しかしそれとは逆に、弥生人とそれ以降にアイデンティティを見いだすのも、日韓同祖論の記憶がまだ強く残っているいまは難しいのかもしれない。この難しさは、東アジア一帯の考古学が進展して、より明快な図が描けるようになったとしても決して解消はされないだろう。

 信じやすい「建国の神話」があると楽なことはたしかである。

1999/12/2

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