真夜中の死線

True Crime

アンドリュー・クラヴァン / 東京創元社 / 99/11/26

★★★★

小説としての構造に欠陥があるような気もする

 著者はキース・ピータースン名義でのジョン・ウェルズ・シリーズが有名だが、あれは甘ったるい時代錯誤的なハードボイルドで、アンドリュー・クラヴァン名義の単発小説の方がだいたい面白い。しかしこの『真夜中の死線』は、アンドリュー・クラヴァンの領域にキース・ピータースンが入ってきたという感じの本で、あまり歓迎できない傾向である。まあ、主人公である新聞記者以外の登場人物からの視点が充実している分だけ救われているかもしれない。

 刑の執行を翌日に控えている死刑囚を取材した主人公の新聞記者が、囚人の無罪を確信し、真夜中のデッドラインまでに何とか死刑を中止させようと頑張る話。邦題の『真夜中の死線』は本文(というか、主人公が書いた本の序文)の中の一節からとった言葉だと思われるが、これは要するに「真夜中の締切り」ということだ。

 まあそこそこ面白い一気読み本なのだけれども、読み終えて虚しさが残った。なぜかと考えてみると、主人公を襲う危機がその周囲の人々を襲う危機よりもはるかにスケールが小さいということに原因があるのではないかと思った。主人公は、職、結婚、子供との関係などのいろいろな面で危機に瀕しており、それらすべてが自分の責任以外の何ものでもないというダメ男として設定されているのだが、登場人物たちの多くは、普通の意味で善良でありながら、主人公よりもはるかに深刻な危機に直面している。そのため、本書に出てくる(ピータースン流の)主人公の独白がなんとも薄っぺらいものに見えてくるのだ。これは、死刑囚や刑務所所長のPOV描写がうますぎるということなのかもしれないし、主人公の薄っぺらさは本作に最初から埋め込まれていたフィーチャーだということなのかもしれない。

 これが最初から埋め込まれていたフィーチャーだというならば脱帽である。この本が、主人公が事件の終結後に書いたノンフィクションという体裁をとっているのは、そのための仕掛けなのかもしれない。これで思い出したのが、『そして謎は残った』に続いて言及するが、1996年のエヴェレスト大量遭難事故を扱った『空へ』『デス・ゾーン8848M』だ。細かいことは各項目を参照していただくとして、ここでのテーマは「ダメな奴が生き残って本を書いたらどうする?」ということである。パニック映画で、勇敢な登場人物たちがヒロイックな行動をして次々と死んでいくとする。現実の世界では、その人々の行動は誰にも目撃されず、記録に留められない。事件の終結後、映画の中では臆病なあまり安全地帯から一歩も出ずに縮こまっていたような人が自分に都合のいいように本を書く。ジョン・クラカワーの『空へ』は、多かれ少なかれそういうタイプの本である可能性が捨て切れないのである。

 したがって、この『真夜中の死線』でアンドリュー・クラヴァンは、そういうダメな著述家を揶揄するメタな小説を書いたのだ、というのはもちろん深読みのしすぎで、たぶん単なる失敗なんだろう。

1999/12/13

TRCの該当ページへ

amazon.comの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ