「部落史」の終わり

畑中敏之 / かもがわ出版 / 95/05/25

★★★★★

大きなインパクトを与えたらしいが、そのことがかえって悲しみを誘う

 『脱常識の部落問題』の編者の一人、畑中敏之の、業界内問題提起本。インパクトの大きい本だったらしいが、面白いのは主張の概要を述べている序章「「部落史」の終わり」と、第一章「部落問題論の現在」で、残りの部分は業界内のマイナーな話題と、序章で述べられている主張の焼き直しだった。ただし序章と第一章はとても良く、わくわくする気分が味わえる。

 著者は、(1)「部落」は近代社会の中で作られた身分として理解するべきだという立場から、近世、中世へと遡っていく傾向の強くなった「部落史」研究を批判し、また(2)部落と非部落を融合することが社会的実践としての部落運動の目標であると規定することで、「部落」を何らかの形で絶対化しようと試みるイデオロギーを批判する。『「部落史」の終わり』というタイトルにはそのような主張が込められている。

 (1)の立場から、著者は近世における穢多身分の人々のことを「かわた」と呼ぶようにしている。この「かわた」と、近代の「部落民」は、たまたま連続していることはあっても、例外も多々あるため、それぞれ近世と近代の別の社会的状況の中から生じた別の身分差別であると考えるべきだという、まあ当たり前といえば当たり前の主張で、著者が述べている「武士」と「士族」はぜんぜん別のものだというアナロジーを考えると当然のことにも思えてくるが(かわたと部落民の連続性は、武士と士族の連続性よりも弱いことを考えるとなおさら)、業界内ではインパクトが強い主張らしい。

 (2)の立場は国民融合論と呼ばれてきたもので、第二章「国民融合論の歴史認識」はこれに関する論争史のレビューである。

 あまり脈絡なしに思い出したのが、『透視される日本』だった。この本ではアメリカにおける若手の日本研究者が多数紹介されているのだが、特に政治学の分野の人々に対するインタビューで印象に残っているのが、最近は比較文化論をやらないと業界で生き残っていけなくなったという雰囲気である。要するに「古い」世代の日本研究者は、日本のことを欧米に紹介するという程度のスタンスでやっていけたのだが、最近は他の国の政治なり社会なりを視野に入れた、場合によっては定量的な研究をやらないと、論文として真面目に受け止めてもらえなくなっているという。これには政治学という分野そのものの変化の影響があると思われるが、日本というトピックがアメリカにとってあまり魅力的でなくなったという最近の経済状況の変化も反映している。

 部落研究というジャンルは、今後はそういう比較文化論にまで積極的に手を広げていかないと生き残れないだろう。実際著者は上記の(2)の立場から、融合が実現した段階で部落研究は歴史研究以外の何ものでもなくなると述べている。これに対して業界内から抵抗があることはとうぜん予想できることで、『だれも書かなかった「部落」』で描かれていた地方公共団体への部落解放運動の寄生とパラレルな現象として、部落研究というジャンル自体がそのジャンルの研究者にとっての既得権益となっているという事態があるわけだ。本書が業界に与えるインパクトは、そういう文脈の中にある。

 まあしかし、第一章に書かれていることには、従来から業界外の人たちがふつうに考えてきたことが多いように思われる。ようやく業界が普通の感覚に近づいてきたと評価することもできるし、遅すぎると感じることもできるけれども、どっちにしてもアメリカの日本研究の流れと同じように、研究の雰囲気も現実の流れに左右されるという事例の1つとして受け止めておくのがよいのだろう。

1999/12/20

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