新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか

加藤隆 / 大修館書店 / 99/04/01

★★★★★

新約学全般の初歩的な入門書

 著者は正統的な新約学者。どうやら1998年頃から一般向けの著作活動を開始した人のようで、今後どんな本を書いてくれるのか楽しみ。

 本書は正文批判(テクストクリティーク)を含む新約聖書研究の基本的な考え方を概説した入門書である。特に興味深いのは第10章「近代の共観福音書研究」で、本格的な新約研究が始まった19世紀半ば以降の研究の流れを解説している。著者は次の項目を立てている。(1) 「史的イエス」研究。著者は、史的イエスについては確実なことはほとんど何も言えないと気持ちよく言い切っている。(2) 歴史批評的方法。新約聖書を含む各種の文書を、執筆された当時の歴史的・具体的状況の中に据えて理解しようとする態度のこと。まあこれは当たり前のことではある。(3) 様式史研究。特に共観福音書に含まれている内容を個々の「伝承」に分割して扱うという態度のこと。「Q」の概念が出てくるのは、この態度からである。これらの伝承はいくつかの「様式」に分類され、それらが保存され、伝えられてきたのは、それを支えてきた当事者たちの間に「生活の座」があったからだ、というふうに理解する。(4) 編集史研究。テクストクリティークを含む、基本的な意味でのテクスト研究。(5) 社会学的アプローチ。前の編集史研究では、オリジナルのテクストを確定し、その意味を考えるという神学的なアプローチが優勢となったのに対し、そのテクストを社会学的な枠組みの中に置いて解釈しようという態度のこと。こうした観点からの研究が本格的になるのは1980年代に入ってからだという。第3部ではマルコ福音書に対して、これらの態度を踏まえた注釈を行っている。

 第15章「新約聖書と世界」では、それまで神学的な側面に立ち入るのを慎重に避けてきた著者が、新約聖書の現代にいたるまでの歴史を簡単に概括し、現代の日本における新約聖書の意味にごく短く触れている。著者は環境問題などのコンテンポラリーな問題とキリスト教との関わりに関心を抱いているらしく、その問題意識のおおまかな枠組みをここに記したということだと思う。ただし、本書の記述だけでは、この2つがどのように結びつくと考えているのかははっきりとはわからない。

 著者は、現代の日本人が聖書を読むことの困難さに言及しているので、これに関して私見を書いておくと。やはり現代の日本人にとって「聖書は読めないものだ」ということを認めてしまうしかないと思う。結局のところ、普通の人には古典ギリシア語なんて勉強している暇はないわけだ。必要なのは、テクストクリティークを踏まえて作られた聖書のコメンタリーと、それらのコメンタリーの格付け情報である。また、著者が関心を抱いている「環境問題」などのコンテンポラリーな問題意識から遡った聖書への言及も必要だと思う。その手の本は聖書とは関係のない個人的な信仰告白の書になりがちだが、あくまでも聖書をベースにして論じられている必要がある。

 私は無神論者で、聖書に世俗的な興味をちょっとばかし抱いているという、いってみれば本書がターゲットとしている典型的な日本人読者だろうと思うが、そういう人間から見てキリスト教と聖書がどのように見えているかを書いておこう。まず、非キリスト教者である私は、特定の宗派に思い入れがないため、「史的イエス」研究を促進した動機、つまりオリジナルへの遡行という発想に最も大きな関心を持っている。しかし、史的イエスを扱った本は上述のように著者の信仰告白になっていることが多いと感じており、どれかのイエス像にコミットすることは特定の宗派にコミットすることと同じようなものだと感じる。また、福音書の成立過程などを知れば知るほど、それらは大昔のきわめて限定された地域でのローカルな事情を反映したものであると感じ、現代の世界にどのように適用するべきなのかがまったくわからなくなる。本格的なテクストクリティークの研究者の書くものには、内輪もめが多いように思っている。たしかにさまざまな世俗的なキリスト教理解を相対化するという作業は必要なんだろうけれども、それよりももっとストレートに非信者に訴えるような内容のものを読みたいと思う。

 なお、参考文献に挙げられている田川建三の『書物としての新約聖書』は、包括的で面白いだけでなく、「入門書」一般のジャンルの中でも凄くよくできている名著で、テクニカル・ライターに勧めたいような本だ。

 なお、同じ著者による『『新約聖書』の誕生』の項も参照。

1999/12/24

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