優生学の復活?

遺伝子中心主義の行方

Brave New Worlds

ブライアン・アップルヤード / 毎日新聞社 / 99/11/30

★★★★

新しい優生学についてのジャーナリスティックな本

 著者はジャーナリスティックな文章を書くイギリス人作家らしい。民主主義と市場経済の現代社会における新しい優生学とでもいうべき流れを論じ、かなり素朴なモラリストの立場から警鐘を鳴らしている。

 『うまくやるための強化の原理』には、1980年代に行動分析学の人間への適用に対する抵抗が弱まったという記述があるが、本書の著者が嘆いている市場経済/科学至上主義の中での優生学は、それと同じ流れの中で隆盛を迎えたといってよいだろう。『うまくやるための強化の原理』の著者は、この流れに関してあまりにも楽観的な態度をとっていて不気味だったが、この『優生学の復活?』の著者は反動的なまでに悲観的で、自文化中心主義が透けて見える。

 本書はそのほとんどの部分がこの新しい優生学のレビューであり、興味深い。しかし、著者自らの見解が開陳されている第7章「クモ」はとても素朴で、反知性主義/反科学主義に分類してもよさそうな内容である。

 著者が懸念を抱いている「優生学」は、簡単に述べると、生物学の発展に伴って遺伝子の働きが解明されていくなかで、人間が遺伝子中心的に理解/評価されるようになり、市場経済の中で、国家による統制ではなく、個々人の自主的な選択の結果として、優生学が実践されるようになるというものだ。シニカルな反論をすれば、そのような優生学は人類が(もちろん他の生物も)大昔からやってきたことであり(というか、「優生学」が問題となったのは、自然選択や性選択の代わりとなるものを、国家主導でやろうとしたからであり、個々人がそれを行えばそれは自然のメカニズムなのである)、遺伝子に関する知識が充実している、いまのような形の市場経済の中では、それが効率的に行われるだけだと言うこともできる。問題があるとすれば、それがあまりに効率的に行われてしまうということと、そこで起こることが自然選択からあまりに離れすぎるということだろうが、そのような傾向の第一歩はすでに大昔に踏み出してしまっているのだし、今後も(科学の進歩があろうとなかろうと)不可避的に進んでいくのである(「画一化」を憂える人は、自然選択や性選択がそもそも遺伝子プールの画一化をドライブするメカニズムだということを忘れている)。このことと科学の進歩一般はとりあえず別の話だし、市場経済はさらに別の話である。

 しかし著者はそういう歴史的なパースペクティブを持たず、ひたすら著者が生きているいまこのときを絶対化しているように見える。それは著者がそういう人だからなのかもしれないし、生物学がこのようなクリティカルな地点に来ていて、同時に自由な市場経済が世界を覆ったように見えるこの時期に、本当に特権的な地位があるのかもしれない。いずれにせよ、著者が懸念するような、親が子供の遺伝子を能動的にデザインするというようなことが実現した社会では、そこに生きている人々がいまのわれわれとはまったく異なる信念のセットを持っていることは間違いない。その信念のセットの内容と、モラリストであるかどうかということは、直交していると考えるのが自然だと思う。たとえば、近代以降の衛生学や精神医学の発展によって、われわれの衛生一般や精神病に関する信念のセットは激変した。信念だけでなく知覚までもが変わった(たとえば嗅覚とにおいに対する感受性など)。それでも、近代以前にも現代にも、観念の枠組みはそうとう違っていても、モラリストは存在するのである。これは逆に言うと、その時点の信念のセットに合わせて、モラリストの基準が変わるということでもある。

1999/12/24

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