近代の拘束、日本の宿命

福田和也 / 文藝春秋 / 98/02/10

★★★

思ったよりもまともだが

 この本は、1990〜91年に『諸君!』に連載された文章をまとめた『遥かなる日本ルネサンス』と、1992年に『Voice』に連載された文章をまとめた『「内なる近代」の超克』の2冊の本を、1つの文庫本にまとめたものである、らしい。

 これまで福田和也のことは真剣に考えておらず、なぜこの人が大きな顔をしているのかが理解できなかったのだが、この本を読んでなるほどと思った。たしかにこの2冊の本を最初のうちに書いていたとしたら、それなりに尊重されるだろう。文章が上手だった。

 『遥かなる日本ルネサンス』の序章と第一章はとくによかった。「近代の超克」の話に絡めて、日本の知識人は、近代の中での日本という「問い」を抱えていると述べ、この問いに対する回答例として西田幾多郎、梅棹忠夫、梅原猛の考えをきわめて明快に単純化して説明している。しかし第ニ章からちょっとおかしな話が散見されるようになってくる。敗戦によって、日本が近代の原理に、とりわけヒューマニズムに屈伏したというのは、まあ別にいいだろう。要するに「近代の超克」は挫折した、というのである。しかし、一方で、戦後日本のヒューマニズムは思考の停止、あるいは禁止であるという、例の典型的なこともいう。この2つのヒューマニズムは違うものでしょう。まあこういうのを初めとして、最初のうちの明快さとは裏腹に、著者の政治的見解が入ってくるにしたがって、内部的な不整合や論理の飛躍が目についてくる。で、第三章の最後の方で、日本はこれからどうすればいいのかという問題に対する著者独自の答えが出てくるのだが、それは「国家と共同体の分離」で、しかも5ページほどでおざなりに触れているだけである。

 この人は、言いたいことがあるのだけれども、それを序章と第一章、それから第二章の半分ぐらいをかけて準備したベースにうまく接続できていないという印象がある。近年のこの人の発言は、この部分のずれがどんどん大きくなっていっているという印象がある。いや別に、この本に書いてあるような根拠なしに政治的な見解を表明しても問題はないのだけれども、根拠がないのにあるふりをしてもらっちゃ困る。

 『「内なる近代」の超克』は、著者自らの伝記(笑)に絡めた、自分の中にいかに日本を(あるいは日本の不在を)発見したかということの告白である。そこからわかるのは、この人は村上春樹を読んで感動するような人だというものである。現代の文化(あるいはサブカルチャーと呼んでもいいか)と完全に断絶していた人が、自分のフィールドに入ってきたサブカルチャーまがいのものを「発見」してしまうと、こうなる、という見本のようなものだ。

 第九章「マジョーレ湖畔の石燈籠」はジョークなんだろうか。俗物と俗物が知識対決をしたが、片方が金の力にものを言わせて勝ったという話なんだけれども、こういう対決で負けたからといって、それを日本人一般に敷衍してもらっては困る。しかし、これ全体が諷刺小説を意図したものなんだったとしたら、かなり上質なものだ。

 そう、全体として、この人はまさに「文学者」という感じがする。科学のことがよくわからないまま、いろいろ考えていくと、欲求不満がたまっていった、という感じか。

1998/4/27

TRCの該当ページへ

検索ページへ 目次へ 前へ 次へ