受難物語の起源

Passion as Liturgy, The

エチエンヌ・トロクメ / 教文館 / 98/07/10

★★★★★

受難物語の様式史・編集史的研究

 『キリスト教の揺籃期』と同じ著者と訳者の組み合わせ。受難物語とは、福音書に登場する、イエスが十字架にかけられて復活するというモチーフのことである。本書はこの受難物語に関する様式史・編集史的研究の成果を扱った連続講演のテキストに手を加えたもの。

 やたら細かい検討を経て、次のようなことが判明する(92ページ)。

既に述べたことから次のことが明らかである。すなわちマタイの受難物語はマルコの並行部分に基づいており、そのマルコの受難物語、それからルカおよびヨハネにおける対応部分は、全て互いに独立しており、またマタイからも独立している。イエスの生涯の最後の二日間ないし三日間についてのこれらの三つの独立した物語の間に際立った類似がなぜ存在するのかを説明するためには、一つの共通の原型があって、正典福音書に記されている物語に至るような三つの伝承が早い時期にそこから分岐したのだと考えるべきだと、私は示唆した。

 ここまではだいたい編集史的なテキストクリティークで到達できる結論だが、その原型がどのようなものだったかという問題は様式史的研究の範疇である。著者はいくつかの仮説を退け、初期エルサレム教会で行われていた典礼で使われていた物語だという結論を出す。ここのところ、正直いってどの程度の説得力がある議論なのかは私には皆目わからない。

 ちょっと大雑把なまとめかただが。マルコ、ルカ、ヨハネの対応部分がそれぞれ独立していることから、受難物語がごく初期に作られたものであることがわかる(ちなみに、マルコの中の受難物語が記されている14〜16章は、1〜13章とは別の執筆者によるテキストで、両者は後から編集者によって結合された。ルカがマルコの受難物語を継承していないのはそのためだと思われる)。したがって問題となるのは、初期にどこで誰が何の目的でこの物語を作ったかということなのだが、著者はこの物語の内容や形式の特徴から、これが初期エルサレム教会のあり方と整合性を持っており、儀式的な場面で使われたものだと推定する。

 初期エルサレム教会の人々は、かなり神秘的な色彩を帯びた受難物語をなぜ必要とし、それをどのような気持ちで語っていたのかというあたりのことは、あまり明解に書かれていない。イエスの死後も宗教団体としての権威を保つために嘘の物語を作って信者を騙していた、というような文脈で初期エルサレム教会を批判することは十分に可能であり、そういう風に言う人もいるけれども、本書はそういう立場でもなさそうだ。起源が地方の教会だったということにでもなれば、もうちょっとすっきりした気持ちになるのかもしれないが、まあそう簡単な話ではないということで。

2000/1/14

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