愉快な裁判官

寺西和史 / 河出書房新社 / 00/04/20

★★★★

複雑な気持ちになる

 『裁判官は訴える!』の項で少しだけ触れた裁判官、寺西和史の書いた本。

 第一章「裁判官になるまで」で生い立ちを語り、第二章「裁判官になってから」で日本の司法制度(特に令状審査の実務)の批判を行い、第三章「分限裁判」で現在問題となっている「寺西裁判」(と呼ぶなと本人は言うが)を紹介し、第四章「最高裁決定批判」で最高裁の判断を批判する。現職裁判官としてはきわめて異例なことだが、それだけでなく、この本の扉には、『地獄への道はアホな正義で埋まっとる』の主題である安田好弘弁護士への献辞が記されている。「有能な刑事弁護人/死刑廃止運動の闘士にして/高潔な人格の士との誉れ高き/安田好弘さんに捧げます」。非常に挑戦的な態度である。

 いや〜、複雑な気持ちだ。著者は真面目な人で好感は持てるのだが、全体的な印象として『裁判官は訴える!』でも感じたような「生ぬるさ」がどうしても消えない。彼の活動は、日本の司法文化に風穴を開けるものとして当然ながら支持したいのだが、実際に会って話をしたら浅い会話しかできなさそうだ、というような感じ。そういう留保付きで、この本はお勧めである。

 第二章で取り上げられている令状審査の話は、きわめて重要である。また著者がこれに関して述べていることは圧倒的に正しいと思うが、特に興味深いのは、令状審査(あるいは裁判官の実務全般)の現状に疑問を抱いた裁判官が、なぜ現状を変えることができずに諦めてしまうのかということを、個人的な経験も踏まえて解説している部分である。

 第三章のテーマである、本人が関わっている裁判の件。これは、著者が組織的犯罪対策法に反対する市民集会に出席したことが、裁判所法で禁止している、裁判官の「積極的な政治運動」にあたるかどうかを争っている裁判なのだが、これは微妙な話だ。著者は、たしかに市民集会に出席はしたが、事前の警告があったために、予定されていたパネリストとしての出席をとりやめた。だから「積極的な政治運動」にはあたらないと主張しており、そのていどの行動も「積極的な政治運動」にあたるとする最高裁と対立している。この最高裁の判断が筋の通らないものであることは自明だと思うが、著者の側にも問題がないとはいえない。というのも、著者が、裁判官は「積極的な政治運動」まではいかなくても、「消極的な政治運動」、もっと譲歩すれば「消極的な運動」を行ってもよいと考えていることは自明なのだ。したがって、この件での著者側の主張は、本音を隠した部分での、テクニカルな法律論争になっている。そりゃ懲戒の危機に直面しているのだがこういう防衛的な手段を取るのは当然だと思う。しかし、「積極的な政治運動」そのものに限らず、それに向かうような流れををどうしても妨げたい裁判所の側からしてみれば、「おまえ、それ屁理屈の言い訳だろう」といいたくなるのは当たり前の大人の判断と言わざるをえないと思う。

 以下、個人的な見解。裁判官が、「積極的な政治運動」とまで行かなくても、著者が妥当だと考えているレベルの「消極的な運動」を行うことを許すべきかどうかは、司法システム全体のあり方に強く関わってくる。具体的には、陪審制、特定の裁判官(あるいは司法管轄区)を忌避する制度などが思い浮かぶ。もちろん、「他の部分が変わらないうちは、この部分も変えられない」などと言っていては、いつまでたっても変化は訪れないのだから、どこかで突破口を見いだす必要はある。しかし、この突破口は、なんというか下っ端の個々の裁判官が自分の考えていることを表明する、というようなところにはないんじゃないかと思うのだ。では、その突破口は何かというと、最高裁が、「政治的」とまでは言わないまでも、行政と立法との間に緊張感を作り出すような独自の見解を表明するということなんだと思う。

 というのも、申し訳ないけれども、国民は下っ端の個々の裁判官が何をどう考えているかにはあまり興味がないんじゃないだろうか。

2000/4/30

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