進化と人間行動

長谷川寿一、長谷川真理子 / 東京大学出版会 / 00/04/20

★★★★★

人間の行動の進化に関する入門書

 著者らは『人が人を殺すとき』の訳者。この読書メモでは、他に『科学の目 科学のこころ』という著書を取り上げている。本書は東京大学の1、2年生用の講義のテキストとして書かれたもの。

 最低限必要な行動生態学の知見を手早く紹介した後に、人間行動の進化というトピックを論じるという構成になっているが、後者の方がボリューム的に少ない。進化論を知らない1、2年生を対象にした講義である以上、これは仕方がないことではある。一方、進化論の一般向けの入門書としては、わかりやすく書かれた良書。

 人間への進化論の適用を論じた部分を読んでいて改めて思ったのは、人間を取り巻く環境としての文化がどれほどの進化をもたらしたかということに関する定量的な見積もりが行われないと、なんとも言えないことが多すぎるということだ。たとえば、第11章「ヒトの配偶者選択・配偶者防衛」について述べている項より引用(252ページ)。

では、配偶者防衛に端を発する、女性の行動のコントロールをしようとする傾向は、進化によって形成された男性の心理なのでしょうか? それは、わかりません。このような資源の独占と富の蓄積、男性間の繁殖の不平等がヒトの配偶システムを特徴づけるものとなったのは、少なくとも農耕と牧畜の発明以降であり、せいぜいここ1万年のことです。この1万年の間に、権力欲や配偶者防衛欲がどれほどであるかに関して、男性間につねに強い淘汰が働き、男性の脳の構造やホルモンの分泌のパターンが、権力欲や配偶者防衛欲に優れるように変わってしまっていたなら、遺伝的基盤のある心理と言えます。
しかし、「女性は多数の男性と性関係を持ちたがらない」という通念と同様に、家父長制的文化のもとで作り上げられているものにすぎないかもしれません。権力欲が強く、男性どうしで連合を組み、女性の行動をコントロールする男性が成功するという社会が長く続けば、男性は、毎世代、学習によってそのようなジェンダー・イデオロギーを身に着けるかもしれませんが、それが遺伝的な変化までは引き起こしていないかもしれません。いまのところ、これはどちらとも言えないでしょう。

 しかし、人間行動の多くについて、遺伝的基盤があるかどうかは、この1万年がどうだったかに依存しているのである。逆に、1万年よりも前から存在していたと思われる環境や社会のあり方から類推され、理論として導出される「適応」も、この1万年の間の選択圧がどのような向きにどれぐらいの力で働いていたかによって、遺伝的基盤を失っている可能性がある。

 で、この1万年がどうだったかという問題にはいろいろなアプローチがあると思うが、上に挙げられている配偶者防衛の話に限定すると、本書でも述べられているように、資源の独占と富の蓄積をベースにした配偶者防衛は、階層化した社会の中の上層部で起こり、下層部ではそれほど行われない。そのような状況で、配偶者防衛という傾向は、果たしてヒトの遺伝子プール全体に行き渡るほど進化しえるのだろうか。あるいは、下層部で行われないということ自体が、配偶者防衛という傾向が行き渡っていないことを示唆しているのではないのか。それとも、「資源の独占と富の蓄積」ができそうな立場にいるときには配偶者防衛を行い、そうでないときには行わないというような戦略が進化しているのだろうか(その場合、後者の適応度が高くなる理由は簡単には思いつかないが、まあ何か思いつけるだろう)。あるいは男性と女性の間のmanipulationのしあいがあり、下層部では女性の方のmanipulationが強くなるということなのだろうか(そう考えるのが一番整合的だとは思う。下層部になるほど、男性側がmanipulationを行うことによって得られるデルタが大きくなるような気もするのだが、女性の方のデルタの方が大きい、と)。まあ要するに、いろんなことが考えられ、どのような仮説を支持する理論も証拠もどこからかは出てくるように思われるのだ。だから本書で挙げられている、特に人間の社会が絡む部分での仮説には、心底納得できない部分が少なくない。

 最後に、本書でも感じたことだが、行動生態学は男性中心主義的な思考体系を持っている。両性間の対立と言った場合に、語られるのはたいていの場合、オスの側のmanipulationだ(もちろん理由づけはなされている)。しかし、(私には力量がないため具体的に提示することはできないが)いろいろな現象を、メスの側のmanipulationが効いているというイデオロギーのもとに説明しきることも可能だと思う。私には、いまの行動生態学では、家父長制の思考体系が自然の見方に投影されているように見えてしかたがないのだ(こういうこと、フェミニストで言っている人がいたっけ?)。とりわけ本書で家父長制と名づけられているようなものは、メスの側の、父親による投資を最大化するための戦略であると言っていえないことはないはずで(少なくとも上のパラグラフの例だと、下層部においてはそうなっている可能性が高いような気がする)、そう言いにくく感じられるのは人間の女性/男性が主観的にそう思いにくいからという理由が大きいのではないか。文化が人間の進化の環境であると言った場合、その進化の圧力は、文化のセマンティックな内容からすぐに連想される事柄と同じ向きに働くとは限らないのだ。というような言い方は、日本の演歌を知っている人ならばぴんと来るのではないか。

2000/5/14

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